2009/10/20

Saltの反哲学的断章① 違いがわかるということ

ある具体的な「もの」や「人」に関する情報は、確かにある「もの」や「人」の状態や特徴を説明している。それは表現された事実であり、すでに表現された時点で、内容は微妙に変質し、脚色されている。発信者の意図によって 割愛され、装飾されている。

例えば一つの「りんご」がある。何処で獲れたどんな品種なのか、赤いのか、青いのか、甘いのか、酸っぱいのか、その大きさは?重さは?

これらを細かく知ると、実際に「りんご」を見ていなくても、見た気分になれる。食べなくてもちょっと食べた気分になれる。かつて食べた別の「りんご」の記憶やその他の情報との比較で、その未知の「りんご」を想像する。

ある「人」についても同じ。実際にその「人」に会わなくても、その「人」の情報を通して「人」に会った気分になれる。一度や二度ばかり実際に会ってわずかに触れ合うよりは、その「人」の情報により多く触れた方が、むしろその「人」の本質に迫れるということもある。情報は真実も伝えれば、嘘もつく。

発信者の意図が受信者にそのまま受け止められることはまずない。発信者が歪めた事実は、受信者の思い込みや能力によってさらに歪められる。

一方で、情報はひとたび発信されたなら、カプセル化する。つまり事実を変質させたまま変質しないものになる。実際の「りんご」は腐るが、「りんご」の情報は腐らない。「りんご」のパンフレットは、不自然なぐらい美しく、いつも艶々した「りんご」を伝えているが、店頭の「りんご」は日に日にどんどん干からびていく。

本物の「人」は老い衰えて死んでいくが、「人」についての情報は無表情。リアルなものは時々刻々変化していく。

つまり、事実とは、不可逆な時間の中で変化していく、とらえどころの難しいものを言う。さらにその奥に真実という秘められた意味がある。「真実」とは、事実の断片を正しく整合させたときに、浮き上がるひとつの意味や価値のことである。

「真実」は、簡単には見えない。そして、事実の複雑さは、それを説明する情報を膨れあがらせる。

最近のメディアを通して発信される情報は、質はともかく、量が多すぎ、スピードが速すぎる。つまり、準備された感覚機能を麻痺させるほどの強い刺激が絶え間なく続いていくのである。こういう情報の洪水に日常的に晒されていると、知らないうちに、どうしようもなく鈍感になっていくしかない。

繊細な感覚を持つことが出来ず、物事の細かい段階や小さな違いがわきあらなくなり、良い物と悪い物を判断する正しい基準を持てなくなる。

気がつかないうちに、ただ単純に繰り返される刺激の強いものだけに反応するように条件付けられていくのである。

これを防ぐ為にはどうすればいいのだろうか。

ひとつは、バーチャルな情報の入力に制限をかける為に、何処かに意識的に防波堤を設けることだ。

もうひとつは、バーチャルな刺激を上回る、自然とのふれあいや人間関係によるリアルな体験を積むことである。

世の中には良い物と悪い物が、さまざまなレベルや有り様で混在している。だからこそ、この世界は素晴らしく、そして、面白い。

「本当に良いもの」を味わうには、時間をかけて観察し、違いを慎重に見極め、努力して獲得するからこそ、価値があるのだ。

情報を選択すること、事実そのものに出逢うこと、ともに大切なことだ。要するにバランスと見分ける力である。

この世から目障りな悪いものを消してしまえば、確かに良いものしか存在しなくなる。しかし、自分で選ばずに何を手にとっても良いものだとしたら、良いも悪いもなくなってしまう。

だからこそ、神はこの世にあえて醜悪な忌むべきものを蒔かれたのである。

単純に良いものを受け入れ、悪いものを拒むだけでなく、良いものを細かくかぎわけ、良いものどうしの中にある多様で微妙な違いを味わいたいものである。

そこに豊かさがあり、選別した事実のつながりの中に、時として見るべき真実を垣間見ることを許される。

3 件のコメント:

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  2. 非常に参考になりました。ありがとうございます。
    授業で学生に話してみたいと思います。

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  3. 学生たちの反応をまた教えてください。

    最近、新任教員の指導で、いろいろ思いもよらぬデジカメの使い方をして、その便利さに驚いています。

    写真は、カメラマンが編集した情報の集積ですよね。また、そういうお話も出来たら楽しいなと思っています。

    時間があれば、Y.B.Mさん自身の詳しい感想も書き込んでみてください。

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