2009/10/26

図書館で考えた

最近はほとんど時間がないのでとんと回数が減ったが、図書館大好き人間の私は、しばしば桜井、天理、田原本、橿原、そして名張などの図書館に出没する。

昨日も閉館ギリギリの時間に滑り込んで10冊の本とCDを返却。あらたにCDを2枚借りた。

貸し出し手続きをしながら、私が図書館を好む理由を考えてみた。

まず、図書館は静かなのがいい。私はBGMを聴き流せない体質なので、気に入らない音がかかっているとかなり気が散り、気分が悪くなるのだ。そして、全く人の話を聞かなくてもいいし、喋らなくていい。私の仕事の大部分は人の話を聞いたり、意味のあることをきちんと喋ったりすることなので、コミュニケーションが完全に絶縁させる時間を保つことは、健康のために絶対いいのだ。

さらに、図書館はお金がかからない。もちろん交通費はかかるが、その方面についでのある時以外は絶対寄らないので、余計な経費は一切かかっていない。地球にもちょっとやさしい。正確に言えばお金がかからないというのは間違いで、図書館は私も税金というかたちで資金協力している。税金を使って建てられた施設は、ちゃんと利用してその内容をチェックしなければ。源泉徴収されている者としては、最大限利用して権利を行使しようと思うのだ。

ついでに本がある。当たり前だ。しかし、あんなたくさん本があるのに、私の借りたい本はないときが多い。それでも、ほとんど自分には興味のない分野の本があふれているのも悪くない。私はいつも一番読みたい本とともに、どうでもよさそうな大して読みたくない本を借りる。私の場合は公私ともにアウトプットが激しいので、本に限らず、常に一定以上のインプットは必要だ。現代は、本なんか一切読まなくても、グーグルで何でも検索できる世の中だが、本から得る情報はまた質が異なる気がする。私は本という媒体が好きなのだ。装幀や紙の質や色合い、フォントやレイアウトなど、本には細かい意匠が詰まっている。料理が栄養の固まりではないように、良い本は、単なる情報の固まりではない。情報を得たくなるように巧みに皿に盛りつけているのだ。

私は単純に読書を勧めはしない。「書を捨て町に出よう!」というタイプだ。さらに「読書なんて他人の頭でモノを考えてもらうことだ」とも言えなくもない。

それでもなお本を読むことによって得られるものは、失うものより遥かに多い。たくさん読むことより、良書を選んで深く読むことが大事だ。内容を記憶することより、その本をきっかけに自分で考えることが大事だ。情報をどのように束ね、繋ぎ、自分の中へ落とし込むか。そこに鍵がある。

そして、最も重要な本はバイブルである。聖書は世界中のあらゆる本にある情報にまさる情報である。図書館にも聖書は置いてあるが、本当は聖書の中に、世界中の図書館も世界さえもが収まってしまう。多くの良書を本当に読みこなす力があれば、聖書がそれらとは全く別次元のものであることは必ずわかる。「信じるか、信じないか」という崖っぷちに立つ程度までは行き着くことになっている。

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