2009/10/21

Saltの反哲学的断章② 信仰の双方向性

日本語の「信仰」ということばは、ギリシャ語「pistis(ピスティス)」の訳語である。

日本語の「信仰」ということばには、信じる対象が何かということより、信じる「私」の心の有り様の問題としてとらえられがちなニュアンスが含まれている。

岩波国語辞典によると、信仰とは、「神・仏など、ある神聖なものを(またはあるものを絶対視して)信じたっとぶこと。そのかたく信じる心。」と書かれている。

「鰯の頭も信心から」という表現もあるが、日本の信仰の世界では、信じる対象が何かということ以上に、大いなる力や、崇高なるものに対する畏敬の念をもってへりくだる姿勢が大事だとなるのである。

ところが、ギリシャ語の「pistis(ピスティス)」は、ずいぶんニュアンスが違う。「信仰」と訳されたことばの本来的な意味には、人が神に対して抱く一方的な思いだけではなく、人間に対する思いや態度も含まれているのだ。つまり「人から神へ」だけでなく、「神から人へ」という、双方向性のある表現なのである。

私は常々、メッセージの中でも、「宗教というのは、人から神への上向きのベクトルであり、聖書が語る信仰とは、神から人への下向きのベクトル、すなわち啓示と恩寵である」という言い方をしてきた。

さらに踏み込んで言えば、まず神からの啓示と恩寵があって、それに応答することによって成立する関係性が、信仰の醍醐味であると言える。

種は上から蒔かれるが、芽は上に向かって生えて、時間をかけて成長し、やがてその時が来れば実を結ぶのである。それは「徳」を積むことにはよらない。人の修行や信心の力ではない。それは種に秘められたいのちの力であり、そのいのちが育つために注がれる雨や光は、まさしく天の恩寵であるから。

聖書全体の各章、各節の整合を追求していくときに、どうにも腑に落ちない、よくわからない箇所というのがいくつもある。私はヘブル語やギリシャ語にそれほど通じているわけではないので、当初は、その道の専門家が苦心して訳されたものに公に意見するというのは、違うように思えたのだが、深く調べるほどに翻訳上の重大な問題点に気づき始めた。

個々の原語が持つ本来的な意味を考えれば、翻訳のプロセスで、翻訳者が自分の理解の及ばぬところを、取りあえず文章としての体裁を整えるために、恣意的解釈が施された箇所が何カ所もあることがわかってきた。そのことによって、結果として、こことば本来の真意を歪め、本質を覆い隠してしまっている。そのような箇所には、神のみこころではなく、翻訳者の貧困な神学が反映されている。

今回取り上げたこの「pistis(ピスティス)」もそのひとつである。この「信仰」ということばを狭義で理解していることが、日本のキリスト者の信仰を台無しにしているのだから、問題は重大である。つまり、信仰を「神中心ではなく人中心」にし、「上から下へを下から上」にし、「いのちの関係性ではなく教条と形式に縛っている」のである。その結果、神と人との唯一の仲介者である人としてイエスを差し置いて、恥知らずの仲介者が次から次へと登場することになるのだ。

ローマ3:22、ガラテヤ2:16,20、ピリピ3:9などの箇所は、本来の原語では、「ピスティス・クリストゥ(キリストの信仰)」である。ところが、「キリストを信じる信仰」や「キリストに対する信仰」という日本語訳をつけることで、人中心の神へ向かうベクトルへとその主意を著しく歪めてしまっている。

「信仰の創始者であり、完成者は人としてのイエス」であって、この神の御子イエスの人としての信仰によって、私たちははじめて神に近づくことができるのだと疑いの余地無くはっきり示されている。

イエスの信仰「pistis(ピスティス)」は、地上におけるイエスの完全な生涯、その「従順さ(ヒュパコエー)」として表現される。この「一人の従順によって、多くの人の不従順が赦される」とも書いてあるではないか。私に義が及ぶのは、「私の信仰」ではなく、「イエスの信仰」によるのだ。そのように信じることのみが「私の信仰の分」であるとわきまえるべきなのである。

パウロは「義とされる」という表現をよく使う。人を義とする主体は神であり、それは神のピスティス(真実)において、イエスのピスティス(忠実)により具現化される。その提示され完了した救いをただ受け取るのが私たちのピスティス(信仰)だと言う表現が正しい。

パウロが手紙の中で語る信仰「pistis(ピスティス)」とは、そのようなものである。もし、読み違いがあるなら、この断章の内容を踏まえてパウロの手紙を読み直せば、なるほどと納得がいくだろう。パウロの手紙を読んで、自分の信仰のいたらなさを責めることはなくなり、このようなイエスの偉大な信仰の結果を享受する者とされたことを感謝せずにはいられなくなるはずである。

2 件のコメント:

  1. 翻訳されている聖書を読んでいてどうしても整合性が取れない箇所は、「聖霊が何時かきっとバランスの取れた理解へと導いて下さる」と信じていたのですが、最近ではSaltさんがおっしゃっている様にどうも違うな〜と感じる様になって来ました。今ある翻訳も生かしつつベレヤ人のように進んで行けたらと思っています。

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  2. アーメンできない感覚というのは意外に大事ですね。私も「こんなはずじゃない」という感覚を大事にしてきたら、やっぱりこんなはずじゃなかった。

    自分の思い込みや信仰には裏切られますが、イエスという御方には裏切られません。

    この御方にふさわしくないなと思えることは、やっぱりどこか違うわけです。

    その当たりの「違い」をもっとわかるようになりたいと願っています。

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