2010/08/25

私の十字架

2学期の為の職員会議があり、ぎっしり詰まった予定を確認し、一つ一つの行事の細かい案を検討する。

私は人と相談するのも、計画どおりに行動するのも得意ではない。共通理解とか言うのも苦手で、組織にはすこぶる不向きの人間である。「何で私がここにいるのか」といつでも思う。・・・・などと言っても始まらないので、取りあえず協力せざるを得ない。

意外性のある独自の視点や創造的で奔放な表現など、学校では全く必要とされていない。物事をスムーズに進行させるためには「何も考えないこと」が一番有効だったりするのだ。

そんなことは自分が子どもの頃から知り抜いた上で、あえて教員になったのだから、現場の改革に無駄に力を注ぐ気持ちもなければ、今さら深く失望するわけでもない。

ただ嫌なものは、未だに好きにはなれず、20年経ったからといっても、私の感受性と思考パターンでは「環境に慣れる」ということはあり得ない。「私」という生き物にとっては、最高に居心地の悪い学校という職場で、何とか生き延びる為には、学校不適応な生来の「私」が死んでしまわなければ、教室には居られない。給料をもらうためとはいえ、子ども嫌いの私は、子どもの前で作り笑顔が出来るほど器用ではない。

教員としての私は「新創造された私」でなければならない。だから、私は日々「十字架で死ぬ」必要がある。それが不信仰に私に与えられた神の方法であった。目の前にいる子どもたちにふさわしい教員となる為に、日々新しく創造されることによって、何とか一定の信仰の純度が保たれてきたのだと思う。

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