2010/08/12

Saltの社会学

学校的価値が学校空間から滲み出し、過剰な影響力を持って社会全体に浸透していることを社会学用語では「学校化社会」と呼ぶ。70年代にアメリカのイヴァン・イリイチが言い始め、日本でも宮台真司や上野千鶴子がよく使っているが、私はいかにも「社会学的な」この表現をあまり好まない。

社会と学校がフラクタルな関係にあることは、私もしばしば述べてはいるが、社会学者が、自分の脳みその中にことばの地図を作るためのつけた記号に、誰もがお付き合いすることはないと思う。

しかし、本来学歴などとは関係のない「芸」を競うはずのフィールドで生きている人たちが、どうでもいいような雑学クイズに答えて「さすが○○大卒芸人」などと言って感心する構造があることに強い嫌悪感を持つ。

「学校化社会とはよく言ったものだ」と言いたくなるのだろう。

「受験戦争」という表現も笑ってしまう。「意欲さえあれば平等に学べるチャンスが与えられていることを、戦争などと表現すべきではない」とも言える。受験を否定するなら、「旧帝国大学」の出身者は、それこそ永久戦犯である。

偏差値身分制の支配する構造の中で、「個性ある人材を」などと言って、毒にも薬もならないようなのっぺりした人格の先生たちが教室の中で語る理想などおとぎ話にもならない。

実際は偏差値で輪切りにされて、それを嘘っぽい綺麗事で覆われてきた子どもたちは、見事に学校的権威を内面化させ、ろくに中身もないのに、一流(と言われる)大学に合格したから自分も一流になったように錯覚するか、「どうせ俺たちは」「所詮私たちなんか」と卑屈になるかに両極化し、その間には8割強の中流馬鹿が烏合の群れを形成することとなる。

インターネットの普及によって、学校はほぼ完全に知識や情報のセンターとしての意味を失った。どこへも行かず、誰とも会わなくても欲しい知識ならPCから得ることが出来る。そうした意味では、これまでとは全く違った時代が来ている。

学校は勝者の既得権益を保持するためにだけ、その不愉快な構造を残しつつ、ますます空洞化していき、社会のストレスを蓄積させながら崩壊を早めるだろう。

すべてをクールに見つめ、尚かつ笑い飛ばせるなら、少しだけ希望が見える。

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