私の学校では、学び合う集団づくりの為の授業研究を続けている。今日は2人の先生の授業のVTRを見ながら、子どもの学びがどこでどう繋がり、又、途切れたのかを1日かけて丁寧に検証していった。
一例を挙げると、発達障害のあるA君は授業の導入部では教師の指導を受けて課題に手をつけたものの、すぐに椅子をひきずりながら自分の机を離れ、大きな物音を立て始める。周囲の子どもたちも、何とか授業を続けるが集中力は途切れてしまい、A君も再び学びに戻って来る気配はない。
こういう場面を見せられると、どんなクラスにもいそうなB君、C君の「こんなとき、どうする?」的な話になりそうだが、発達障害の子どもの不適応な問題行動を「集団の質を表現しているのだ」ととらえ、周囲の子どもたちとA君との関わり方や、A君の「わからない」という困り感を生かす授業デザインを作るにはどうすればいいのかを追及していく。
VTRを巻き戻してA君の動きを細かく追っていくと、彼の不安や不満が身体表現として表出する理由やきっかけが教師の授業行為の中にあることが見えてくる。
勿論、A君は発達障害のゆえに、問題行動を起こすのであるが、問題行動を誘発する条件は教師が提供していることが明らかになる。これは見落とされがちな重要な気づきである。
「特別支援というと、発達障害のある子どもが普通学級の中で少しでも単元の課題に近づけるように個別のサポートすることばかりが語られるが、「子どもどうしのつながり」や「集団のあり方の問題」としてとらえることがいかに大切かを痛感する次第である。
昨日、見学した「あおはにの家」なんて、本当はない方が良い施設なのだ。社会的弱者を排除し、切り捨てる価値観に私は決して賛同しない。
「子どもどうしのつながり」や「集団のあり方の問題」としてとらえること
返信削除欠かすことのできない視点です。
私は、相談を受けた子とものことで担任の先生のところへ行きますが、まず相談を受けた子のことから話しても、クラスの子どもたち全体の中で、どう支援するか、他の子で配慮が必要なこととのバランスなど、精一杯思うことをお話します。
ただし、聞こうという気のある方に対して、となっていますが。
それとは違う次元で、個別の関わりは不可欠です。
先日の見学の日、最後の店でお茶したとき、特別支援学級の子どもとの交流をSaltさんが話してくれましたね。
私は、あのお話・指導を解説することは可能です。棒きれを同じように振り回していたき、シンクロするものがあった、的なお話は「模倣機能」であり、二者間の情緒的交流であり二項関係の始まりだったと思います。
そういったことは集団、それが小人数であってもダメと思います。個別のかかわりです。
人として個別のかかわりと、やっぱり人として集団でのかかわりと、その子によってどちらも段階を踏んだ支援を考えられるのが、プロと思います。
プロとしてのスキルを高められるよう精進いたします。
返信削除ところで、私の学校の授業研究にここ数年継続して関わってくださっているのは、特に肩書きを持たない寝屋川の公立学校の先生です。
しかし、いつもお話をうかがっていると「この人はホンモノの実践家だなあ」とつくづく感心させられるのです。
こういう無名の先生が現場で子どもたちとともに過ごして来られたんだと知っただけでも、涙が出るほど感動します。
VTRを見ながら、「ほんまにしんどい子やなあ」とみんなが思っていたであろう瞬間に、「発達障害の子は集団の質を表出させるのだということを覚えておいてください」と静かに語られたときには、「さすが!」と膝を打ちました。
学校が知識のセンターとしての機能を喪失した今日、公立学校に不易な価値が残されているとしたら、それは、子どもたちの多様性を擦り合わせて、互いに学び合える集団を作ることにしかないと思っているのです。
言うのは簡単、でも実践は簡単ではないですよね。
返信削除言うのは簡単になりつつある?自分に対し、泥臭く実践を積んでいく必要を感じています。
「発達障害の子は集団の質を表出させるのだということを覚えておいてください」
私も肝に命じます。
問題点を指摘するのは簡単ですが、問題に寄り添うのは泥臭い作業です。問題を解決する道筋は見えても、そのためには膨大な時間とエネルギーが必要です。
返信削除私も去年当たり前のように新人たちに指導していたことをいざ目の前の子どもに試してみても、うまくいかないことの方が多いのです。