2011/01/02

ナナちゃん人形を見上げて


正月にいったい何人の人が初詣に行くのだろう。

名古屋駅の近くにナナちゃん人形がある。名古屋の友人との待ち合わせなどによく使う。

いくら正月でもナナちゃん人形を拝む人はさすがに誰もいないだろう。ただの人形だからだ。でも、これが金ピカだったり、社の中にあったりすると、疑うことなく拝む人が出て来るのだろう。ナナちゃんは名鉄百貨店のシンボルなので旬の装いに着替えをする。暮れには「冬のクリアランス」のタスキをかけていた。たくさんの人がナナちゃんをバックに写真を撮っていた。

そういう人たちの視線をちょっと気にしながらも、私は斜め下から変態的角度でナナちゃんを盗撮。相手は人形なのに周囲の視線を気にする私はまだまだ修行が足りない。

人は心の中にある恐れや欲望をかたちにしてそれを拝むことで、後ろめたさや不安をかき消そうとする。神の栄光をさまざまなかたちあるものに代えてそれを拝む。(ローマ1:18~23)

「何か大いなるものをありがたがる宗教的情操は大事なものだ」と言う人もいる。しかし、それは信仰とは正反対のベクトルである。宗教的情操は善悪の知識による呵責が基になった防衛機制だからだ。したがって、宗教的情操によってキリストを拝すれば、それは立派な宗教だということになる。教会という建物や組織、牧師という人、さらに自分たちが奉じる教義や信仰深さをありがたがることも含め、たとえそれがキリストに多少の関係があったとしても、それらは仏像を拝むのと大して変わらない人の心の弱さであると私は評価する。

とりわけ、「かたちのない偶像」は一番厄介な敵であって、それは我々の心の奧深くに潜んでいる。私たち自身の中のキリストに関する誤ったイメージや信仰上のビジョンには、「下がれ。サタン」と命じなければならない。

では、私たちの心が偶像に支配されているのをどうやって見分けることが出来るのか。それは、「イエスを自分の方へ引き寄せて、いさめ始める」態度によって明らかになる。そして主に向かって祝福のことばを述べ、十字架を否定するようになる。(マタイ16:22)

年始にいろいろと計画を立て、夢を持つのは悪くはない。しかし、優先順位が転倒すると、知らずに偶像を拝むことになる。

ナナちゃんはただの人形。計画も夢も、キリストではなく人の形では駄目だ。

4 件のコメント:

  1. 大変な変態です。僕も、兄貴のような変態になりたい。今年も宜しくお願い致します。

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  2. [神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます]

    どうしても今の自分の立ち位置や目指すものがチラつく時、イエスを自分の方へ引き寄せたくなります。
    祈りという名の自分の言葉で主をいさめようとする。

    主と主の言葉は本当に素晴らしいです。
    それにしても教師という職業を差し引いても
    うちでは家内の許しは出ないと思う。
    羨やむべきか呆れるべきなのかうーーん。
    エペソ楽しみです。

    追記 cozyedgeさん
    私も兄貴のようになりたいです。(長男の方ですが、、。)

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  3. cozyedgeさん

    こちらこそよろしくです。
    ホントに誰かさんといると悪乗りしてしまいがちですが、改めていい写真だと思ったり。

    みなさんに軽蔑されるのが楽しみです。

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  4. 電気屋さん

    祈りという自分のことば・・・・ホントですね。

    「どう祈ったらいいのかわからない」と書かれているのに、ちょちょいと慣れたような予定調和的な祈りをするのは抵抗ありますね。

    別に妻は見ていないだけで(今のところ)許しが出たわけではないのですが・・・・後から叱られる可能性はあります。

    羨むよりは呆れる方が正しとは思います。ただ、善悪はあまり気にしないってことで、よろしくどうぞ。

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