少しまとまった時間があると、何をするにも本格的に取り組むには絶対的に時間が足りないことをよけいに痛感する。よくこれで何とかまわってきたなと思うが、そんなことに感心している場合ではない。
今年はもう少しいいものを作りたいし、中身の濃いことを話したいし、仕事も充実させたい。父親としても夫としても、もう少しマシになりたいが、やることなすこと、どうもぎこちない。
よく「どうでもいいや」と構えているとは言っているが、それは結果に対して柔軟に受け止める心の準備をするためであって、目標に向かう姿勢は意外にもけっこう真剣だったりするのだ。
あれこれと、やらねばならないことに手をつけてみるが、どれもこれも中途半端。今日は鬱気味の自己嫌悪な日曜日になってしまった。
熱心だけではどうにもならない。せっかくの休みなのに休もうとしないからこうなるのだ。反省。
素直な感想をお聞かせいただきありがとうございます。
返信削除確かに目の前に飛び出てくるモグラを一心不乱にたたいている時では感じない思いというものが
出てくるときがあります。
それが人間であります。
何をしても中途半端は同感です。
結局はマリアの様に
「ないんです」「足りません」と
イエスの前に持っていくことだけが私の働きかも知れません。
そんなにうまくいくかどうかわかりませんが、
返信削除今年は、ああしようこうしよう、と目標を立てないことにしました。ただ、一点「聖書を読む、主との関係を見つめ味わう。」だけに日々淡々と向き合おう、と思っています。
どうにも私が気張って頑張っても誰も楽しく幸せにできず、主にあって私が楽しく幸せであることが一番いい、と思わされました。
とはいえ、ジタバタしあざとい者ですから、おかしくなるでしょうが…。そんな自分を認めて、淡々と行きます。
電気屋さん
返信削除ありがとうございます。
けっこう注意深く点検しながら進んでいるつもりでしたが、忙しさで充実している気になっていることが多いんだなあと、昨日はしみじみ感じてかなりブルーでした。
叩く必要のないモグラを無視する余裕と判断力を持たないといけません。
銀じ郎さん
返信削除おっしゃるとおり、主との関係性が最重要です。優先順位を間違えると、大失敗や回り道をすることになるので要注意です。
「私以外の誰かの為に」という部分と「私の楽しみ」とのバランスは凄く微妙です。
動機は結果より大事ですが、良い動機は決して長い目で見て悪い結果にはなりません。