2010/02/25

emiさんとのお別れ

emiさんと最後のお別れをした。

国道沿いのコンビニ葬儀館には、emiさんがはっきり切り分けけじめをつけたかったはずの安っぽいキリスト教的な空気が立ちこめていた。カシオポータサウンドの玩具的音色の伴奏にねぼけたような賛美が響く。私が出来ることなら、いろんなことをもう少し何とかしてあげれば良かったと思ったが、そんなことは全く意味のないことなのだともわかっていた。この世における人の最期とは、まあこんなものなのだ。

考えてみれば、「キリスト教」という大騒ぎも、イエスの死の本質を忘れたイエスの死に関するイベントである。いずれの混沌にも、その核に何を見ているかは各人の霊の中に答えがある。どんな風にかたちにしても、いかに演出しても、「どこか違う感じ」は地上では拭えないものだろう。しかし、この違和感の中にイエスがおられるのだと私は思う。

私は喪服の参列者の黒に溶けこんで、五感に染み込んでくる不愉快な要素を可能な限りシャットダウンしつつ、emiさんのことを静かに思っていた。

emiさんはとても繊細で静かな方だった。そして、心の奥深くに熱く燃えるキリストへの熱を秘めておられた。

私との出逢いでボサノヴァにも興味を持ち、中止になったジョアン・ジルベルトの来日公演にも一緒に行くはずだった。

私の作る音楽にも深い理解を示して応援してくださっていた。阿武隈の山小屋で、奈良市のカフェで、室生の工房でライブを聴いてくださった。

オリジナルの賛美を共作しようというプランもあり、1曲だけしか出来なかったけど、KFCでも歌ってくださった。第2弾、3弾も作りたかったのに。

奈良では、「山の辺の道」や「明日香」を歩いた。体力的にもキツかったと思うが頑張って歩かれた。Sugarさんの阿武隈の山小屋でも何とも楽しい時間を過ごした。山の上から一緒に輝く太陽を見た。

「もう一度奈良を歩こう」「今度は一緒に北海道やイギリスにも行こう」そんな話をしていた。気休めや慰めではなく、本当にそんな日が来ることを願っていた。

私の音声メッセージの配信も、彼女がその気にさせてくれたようなものだ。それまでもリクエストに対しては個別にはダビングして対応していたが、不特定多数の方々に向かってネット上で発信しようという気持ちはそもそも私には全くなかったし、物理的にもむりだった。当時はISDN環境だったので、毎回CDに焼いてemiさんのところに送っていた。それを毎回emiさんがデータを変換して更新してくださっていた。その回数は100回を超えた。データCDと一緒にemiさんが好きそうな音楽CDを選んで送るのも私の楽しみのひとつになっていた。

彼女と共有した時間や経験は簡単にことばに出来ないほどとても貴重なものだ。そして、これらの交わりはすべてイエスという御方によって共に結び合わされているという幸せと希望がベースにあった。

訃報に触れたとき、何とも言えない気持ちになった。Lukeさんが送ってくださった液晶画面の文字が淡々と事実を告げていた。去年の暮れから、emiさんのことを想うと心が重くて辛かったが、その時なぜか悲しみとは別の不思議な平安が訪れた。

これは、なかなかことばではうまく表現できない。心の持ちようとか、気分ではない。未だに感情はブロックされていて涙も出ない。

「祝福に満ちた唯一の主権者・・・・」義父が急死したときに、その枕辺の祈りの中で与えられたみことばが再び心に甦る。ただそのことばによりかかっている。これは祝福であり、残されたご遺族にとっても最善であったのだと・・・・

そんなことを、私ごときの脳みそが簡単に理解できるはずがない。ただそのことばが真実であり、主は間違いないということを信じるしかない。

emiさんの悲しみも喜びも、死も復活も、そして私たちの希望もすべてはイエスにかかっている。そんなことはわかりきったことのはずだが、「本当にアーメンする」には、私はまだまだ頑なで強情なのだと思う。

いつもemiさんが気にかけておられた御主人とふたりの娘さんにお会いできてよかった。3人のしっかりとした表情から、それぞれに心の準備をされて、emiさんとお別れされたんだなと伝わってきた。

ご遺族のこれからのために私が出来ることなんてたぶん何もないが、もし何か出来ることがあれば、何でもさせていただきたいと思う。

関係の皆様の上に慰めと平安がありますように。

emiさん、おやすみなさい。いずれ、そのうち。

3 件のコメント:

  1. どこかで、誰かが亡くなっても私がその人を知りもしないなら悲しみは無い。
    飢えている人、迷っている人、不正にあっている人
    私は、只ここにいてほとんど何も出来ない。

    そう考えてみると、主の大きさと強さが見えてくる気がする。
    主は全てをご存じで、たとえ地球の片隅で人知れず死んでいく人とその人の全てを知っている。
    全能で有る方は、その全能さを閉じることなく、力と義と権威を持っていてなお力をもって性急にあたらず、
    忍耐を持ってそれを受け止めている。

    ソルトさんのブログにより、一度も会うことの無かったその方ではあるが、葬儀の情景の淡々と時が流れている様子、そして、emiさんの生前のご様子がありありと見える様です。

    永遠に生きる者として造られた人にとって死は不自然なもの、あのときのあの人はあの思いは今は何処でどうしているのか、

    地上の空しさを感じるほどに、天への渇望が強くなるそこでは、足の不自由だった方も子牛が、跳ねながら歩くように、心に欠陥の有る者も、人を傷つけることもなく自由に語ったり歌ったりする時を待ちわびる。
    私はそこにある水晶のように透き通る金を見て、命の木の12種類のまだ味わった事のないその果物を心ゆくまで食べる。
    そしてなにより私の魂の親である方、私の救いである方、天にまで導いてくれた方を、もはや偏ってみる事のない目で顔と顔を合わせてみるのだ。
    そこでは私が地上では一度も出会うことのなかった方々と共に、時間や疲れや言葉の違いを気にすることなくイエスがあなたには何をしてくださったのか、一体どれほどの大きな事をなしてくださったのか、これほど小さな事まで気にかけてくださったのか、ずっと、ずっと、ずーーーっと聞かせてもらうのだ。

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  2. あなたがたは、地上のものを思わず
    天にあるものを思いなさい。

    主にある者が召されると、自然に天を思いますね。
    この世にいた姿より、天に憩う状態をこそ、想像しますね。
    事細かに、天を、知る事は出来ませんが、
    今ここにいて笑ったりもしていますが、
    天の方がはるかに素晴らしいという確信を、
    簡単に持てているのも不思議です。
    永遠への思いまでも、与えられているのでしょうね。

    Saltさんもお疲れ様が残りませんように。

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  3. おふたりのコメント胸に沁みます。

    emiさんがいなくなって悲しいです。

    今はただそれだけです。

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