2010/02/22

教員のメンタルヘルス

教員のメンタルヘルスの問題がクローズアップされることが多くなった。文科省の委託プログラムの調査結果を見ても、かなり厳しいものがある。

質問項目に対するマイナス解答のパーセンテージの高さより、一般企業との比較の中で語った方がはっきりする。教員は「気がめいる」「イライラする」「いろんなことに頭がまわらない」では約2倍、「気持ちがしずんで憂鬱」では約3倍、「ぼんやりして、作業に集中できない」という項目では5倍近い人たちが自覚症状を訴えているのだ。健やかな子どもたちを育てるはずの先生たちが病んでいたのでは話にならない。なぜ、こういう結果が出るのか。

物凄く簡単にまとめてしまうと、社会的な尊敬が失われたのに、要求は多様化して件数も増え、授業の他にもいくつもの校務をこなし、運動会や遠足や学芸会などの数々の行事をこなし、どうでもいいような書類を山ほど書き、さらに様々な研修に参加し、その上で過剰な要求に応え、勤務時間を超えて家庭訪問を繰り返したり、電話をかけたり、学校で個別に対応したりしているのである。しかも、肝腎の子どもはなかなか落ち着かず、言うことを聞かない。そりゃあ、おかしくもなるわ・・・とこういうことだ。

民間企業での経験を経てから、教員に転職された銀じ郎さんや隆嗣さんたちがコメントしてくれれば、私が言うよりも説得力があると思うが、確かに教員の仕事は忙しすぎるのだ。しかも、報いを感じることは少ない。「ハイリスク・ローリターン」が続くと元気がなくなってくるのは当然だ。

子どもは商品ではないし、教育はサービスではない。だからこそ「聖職」と言われるのである。昔は社会全体に教育を神聖視する空気があった。しかし、歪んだ人権思想が自他の権利意識を増長させ、教師が自らを「労働者」として規定して、「教育」を工場労働の類と同質なものにした。

「私は立派ではなくても、私の仕事は立派だ。」
そういう誇りと責任を捨てた結果が、現状を招いた学校サイドの要因であると私は考えている。

そんなわけで、私は教職員の組合運動とは常に一線を置いてきた。
「教職は聖職である」と規定する以上は、何があろうと現場から逃げたり、目をそむけたりは出来ないということでもある。

とは言え、「そんなことどうだっていいからとっとと逃げたい」と思うことはたまにある。

4 件のコメント:

  1. 昔「民間で通用しない者が教員になるんだ。」と書き込まれた方がいましたよね。「民間で通用もせず教員にもなれない者がねちっこい足引っ張りだけの教員批判をするんだ。民間で通用する人は書き込みに教員批判などするヒマはない。」と思ったものです。それはさておき、私の場合、ある意味「民間で通用しないので教員に転職した。」は当てはまります。

    教員は忙しいし、ばかばかしいような仕事も山盛りです。聖職とまで言われなくても、子どもに向き合うプロとしての技量もさほど評価されていないのでは、と感じることもあります。
    でも、私にとっては民間で務めていた時のストレスに比べると、こんな幸せなストレスはない、と今は思えるようになりました。単純なことです、ストレスの中にも楽しみを見出せるからです。
    そうできるのは、神さまの恵みです。「神が彼の心を喜びでみたさせるからだ。」(伝道者5:19)だからこそです。

    疲れきって壊れる教員と、疲れていてもそれでも元気な教員と、その違いはなんでしょう?私は、楽しませてもらってる、といった謙虚さがあるなしのようにも思います。う~ん、うまく書けませんが、自分で楽しくしなければ、と力む人と、また楽しませてもらった、と力が抜ける人と、そんな違いのような。

    自分たちがどんなフィールドに立っているのか、よく考え、同業者の方、踏ん張りましょう。

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  2. 確かにおっしゃるとおり、鍵は脱力ですね。

    ボサ・ノヴァの脱力感は最高です。

    でも、鍛えてないと抜けないのです。これも鍵。

    ヘボは何やっても無駄に力はいるでしょ。

    アレが過労のもとですね。

    仕事を、出逢いを、私が私であることを楽しませてもらいましょう。

    ちょっとカメラを引き気味にして、これを面白がれるかどうかですね。

    私もまだまだ未熟なので、ちょっと力むと一発でアウトです。

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  3. エシュコル2010年2月23日 23:26

    なるほど。lukeさんはそれが上手なんですね。

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  4. ・・・ですね。

    昨日Lukeさんと一緒に食事をして、改めてそう感じました。

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