2010/02/18

教室と教会の「教」の歪み

「義務教育」というシステムの功罪については、誰もが平等に語る権利や義務を有していると思う。現代社会は驚くほど学校化されている。そのフラクタルな構造の中に、いずれをも読み解くヒントが隠されている。

学校外の力学が学校内のいじめを生んだり、学校で培われた価値観が学校後の選択に大きな影響を与えるからだ。教育について考えることは、社会について考えることであり、教育を語ることは人間を語ることだ。そして、目に見える世界には目に見えない世界を鮮やかに映している。

公立小学校の教室には、様々な背景をもった多種多様な個性をもった子どもたちがいる。興味も能力もバラバラである。そこに面白さがある。

この互いの違いがすりあわされ、意味や価値が構成されることの中に教育の醍醐味がある。ポイントは、子どもが潜在的に持っている力や、集団が有機的に機能したときの可能性を信じられる教師がいったいどれだけいるかということだ。

小学校の授業というのは、いわゆる講義ではない。子どもが学びの主体であって、教室は学び合いのリングである。知らないことを知ることの喜びや出来ないことが出来る嬉しさ以上に、価値あるものを友達と分かち合うことや友達の存在そのものを感じる楽しさが溢れるものなのだ。教師の感性や力量によって、学びの質は大きく変わる。

物凄く前向きなことを書いたが、こうしたことがもう夢物語なのではないかと思える現実が目の前にある。

久しぶりに国語の授業をした。新任に見せる師範授業というやつだ。一番荒れているやりにくいクラスだ。教師に先輩も後輩もない。子どもの学びや成長の支援者でしかない。

価値を教え込むのは簡単だ。そうではなく教えずに感じさせることが大事なのだ。子どもたち自身の探求の果てに「約束の場所」へ行き着いてくれるような地図を示すことだ。

これらは霊的な原則とも完全に一致する。成長させてくださるのは神である。種を蒔き、水を蒔く時と場所と程度をわきまえていればいいのだ。後は慎むことに尽きる。

神は不思議な助言者であり、イエスだけが偉大な教師である。牧師なる存在が価値を教え込むのは、福音の妨害であろう。

エクレシアを教会と訳したことにも、その本質の歪みが明らかである。神は聖書と聖霊をお与えになった。聖霊はあくまでも助け手あり、この方はただイエスという御人格と御業を明らかにする。

3 件のコメント:

  1. 主を求めず、王を求めたり、教師を求めたり、牧師を求めたり、…結局そこに行きつくのでは。

    私は、そう主から示されたのだから、自分自身が主のあわれにを求め、一歩一歩しかない。

    投げ出せないが、学校も教会も、新しい向き合い方が私にも必要と思うようになりました。

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  2. エシュコル2010年2月19日 11:19

    ニッポンキリスト教は相変わらず主を求めず、牧師を求めたり何とか運動とかを求めたりしてますね。
    それに気付いた人も方向が間違っていたり・・・

    だからLukeさんがよく言われる「エクソダスせよ」を勘違いしている人達がいるし、「正統」だからLukeさんなどをカルトにしてレッテルを貼ってしまうし・・・

    『私達は知ろう。主(太字)を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光の様に、確かに現われ、大雨の様に、私達のところに来、後(のち;春)の雨の様に、地を潤される。』

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  3. Lukeさんがカルトなら、私はオカルトぐらいでしょうか。

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