2010/02/12

気づくこと・気づくかないこと・気づかれること

私は教員3年目に、1クラス40人程度の町の学校から、1クラス10人未満の山の学校に転勤した。そのときに受けたショックは忘れることが出来ないほど強烈なものだった。

最初の2年も、子ども一人ひとりを意識して見ているつもりだったが、いかにそれがアバウトでデタラメなものであったかということを思い知らされた。

私は何となく全体を見ていただけだった。

4月の早い段階にそれはやってきた。いつもはテンポよく進むはずの授業が、なぜか急にリズムが崩れ、空気がよどむのだ。

原因は明白。それは、私が時折まずい発問をするので、虚しい沈黙が生まれてしまうからだ。教室に40人もいれば、どこに投げても誰かが投げたボールを受けてくれるのだが、10人未満だとそうはいかない。投げたボールが誰にも届かずに教室の床に転がる。こうした経験で私は初めて目が覚めた。

40人もいれば沈黙も気にならず、黙っている子どもたちも、答えられない自分を責めたりしないが、10人だと子どもたちが沈黙に気を使いはじめて申し訳ない表情を浮かべたりする。

思考が深まる沈黙は大歓迎だ。しかし、発問が子どもの現実のそぐわない不適切なものであるために生まれた沈黙は授業にとって大きな妨げとなる。

子どもに「申し訳ない顔」をさせている私の愚にもつかぬ発問はどこから生まれたものか。

それは、目の前にいる子どもをしっかり見つめないで、実際に存在しない「架空の平均的児童」を想定して準備したものだからだ。

私が嫌ってきたさまざまな指導のマニュアルは、「架空の平均的児童」のために作られたものである。そう感じて、1年目からマニュアルには一切頼らず、自分なりにその都度つくりあげたもので勝負してきたつもりだったが、何のことはない、自分自身もしっかり個々の子どもを見切れていなかったのである。

これまでは40人という集団の力を借りていただけだ。私のリーダーシップでグループダイナミズムを利用していただけであって、大きな流れを作って調和させるために、目立つ子どもたちの際立った個性は随所に生かしてはいたものの、それは本当の意味で一人ひとりをしっかり見つめて個別のニーズに応えていたわけではない。

私はこの山の学校の経験で多くのことを学んだ。全く違う能力や個性の一人ひとりが集まって、2人や10人や40人になるのだということに気づいた。

どうしてこんな当たり前のことに気づかなかったのだろうと自らを恥じたが、本当に気づかなかったのである。

偉そうなことを書いてはいても、私にはまだまだ気づいていないことがまだまだたくさんあるだろう。

日々勉強である。今日出逢う子どもたちが新しいこと気づかせてくれる。それが教育の醍醐味である。これまで私が子どもに教えてきたこと以上に、子どもから教えられたことが大きい。別に恰好つけてるわけではなく、本当にそう思い、出逢ってきた子どもたちに感謝している。

教室が騒がしいとき、すぐに「静かにしなさい」「うるさい」と怒鳴る先生がいる。でも、40人いても本当にそのとき、声を出していたのは数人で、喜んでそれを聞いていた者を同罪としても10人もいないことが多い。場合によっては2~3人がさわがしいだけなのに、全員に罵声を浴びせるのはどうかと思う。

私は徘徊しながら新人教育を担当しているのだが、子どもがさわがしいとき、「次のことを指示せず、子どもが静まるまで何事も発するな」と教えている。間違っても子どもに負けないような大きな声で指示を与えてはいけない。

「それでも静かにならなかったらどうしますか」という質問には、「子どもの気づきに時間がかかるときは、うるさい子どもたちを叱るより、静かにしている子どもたちをほめる」ことを勧めている。

子どもは、先生が何となく全体を見ているだけなのか、自分を意識して見つめてくれているのかを見分ける臭覚を持っている。

子どもは、先生が自分のやるべきことをやっているだけなのか、自分にとって有益な価値を与えてくれようとしているのかにも、やがて気づくものである。

5 件のコメント:

  1. またまた昨日は会議で噛み合わない話し合いに滅入りかけた。

    そこまで他を排除し自分らこそ価値ある取り組みをしている、という態度をとられると、「そんなものだけが認められるべきことではない。」と噛み合わないとわかってもぎゃーぎゃー言ってやりたくなる、言ってやった。「どうだ、感心したか!」って態度で話を終わらせようとする人らに、いい気で終わらせてなるのもか。なんで感心しないだ、とひっかかりを残してやれたか?

    こうあるべき、というお仕着せの教育にはまいる。それも、ここはお仕着せになってしまうけど、と自覚があるならまだしも、お仕着せを違和感なく誇らしげに示す人たちとは…。

    「気づくこと・気づかないこと・気づかれること」そういう自覚は、他の人にすごく安心を与えると思います。

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  2. 「習熟度別学習」でこそ再認識したこと。
    大阪府では少人数指導に「習熟度別学習」をしないと、少人数担当者をつけないというきまりがある。そこで、意に反しながらやっているのが現状である。
    先週まで、いわゆる理解が困難な児童の20人のクラスを受け持っていた。従来なら、理解が進んだ子ども20人のクラスの担当であった。この2週間、理解が困難(マンツーマン指導しないと難しい子どもが10人程度)な子どもと悪戦苦闘した。
    そして、あらためて一クラスで、互いに教えあいことが素晴らしく、子どもたち同士の繋がりを育むことができるかを痛感した。国は一生懸命「習熟度別学習」という名の能力別学習を推進しようとしている。(しかし、今だ調査段階での有用性は実証されていない)
    方法論の問題もあるだろう。でも得意な子も、不得意な子もともにお互いを補うことができれば一番いいのではないだろうか?
    時に出来る子どもは言う。「どんどんスピードがあって自分が賢くなる。」そんな子どもをたくさん作っていくことが学校ではない。
    昨年度アンケートをしたとき、本当に子どもたちが生き生きとしていたクラスでは「分割する学習が嫌いだ」という声が突出して多かった。「みんなの考えが聞きたい。友だちと教え会いするのが楽しい」と。そして、スタート時点で一番学力の低かったこのクラスが、最後には一番上になっていた。

    そして、子どもらの理解の仕方が(理解できない所が)本当にいろいろあるというのも今回痛感した。だから、よく言う「平均的なこども」なんていないんである。
    しんどかったけど、見えないといけなかったことが、しっかりと見えたので本当に良かったと思う。

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  3. 授業において、発信よりも受信の比重を高めていくことが大切だと思っています。

    新人の授業を見ていると、子どもを無視してもとにかく自分の準備したことをやりきることに必死だったりします。

    何であれ、相手を見ないお仕着せは、不愉快なものです。宗教に夢中の人の発信もたいてい相手なんか気にしてません。

    人はみな身勝手なものですが、せめて少しでも意識して、相手を気づかえる者でありたいと思います。

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  4. 硬派銀じ郎さんやSaltさんなど、苦労が分かります。

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  5. エシュコルさん、ありがとう。

    精進します。

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