2010/02/11

コミュニケーション絶縁の時代を生きる②

最近、自分の所属校で「コミュニケーションが絶縁される場面」に出くわすことがある。直接関わりのない親御さんたちにこちらから挨拶しても、挨拶が返ってこないことが珍しくないのだ。無視されることもあれば、無視以前に存在に気づかずに通り過ぎられることさえある。これにはけっこう傷つく。少なくとも奈良の田舎では10年前にはなかった現象である。勤め始めた頃の旧都祁村の集落では、私が子どもたちを連れて校区を歩くと、道行く人や農作業をしている人が、子どもが小学校にいるいないに関わらず、挨拶をしてくれたものだ。

ところが、今の親たちはそうではない。自分の子どもが学校に通っていても、担任や関わりの深い先生以外には挨拶をしないのが普通になりつつある。こうした親たちの日常的風景やなかま意識の中に組み込まれない限り、彼らは目も会わさず挨拶もしないのだ。だから、不作法を嘆いていても関係は良くはならない。むしろ、彼らの習性やルールを学ぶ必要があるのだ。

彼らもその子どもたちも、普通に考えてあり得ないような行動をとっていたとしても、ちゃんと周囲の目は気にしている。つまり、挨拶もしてもらえず、迷惑を被る位置にいる人たちは、彼らの周囲のさらに外側に存在するものと見なされているのである。

まず、日常的風景に溶けこみ、「なかまなんだ」と認知してもらわなければ、価値のある情報は一切伝わることはない。ちょっと気にいらないが、こういう技術も職能のひとつとして身につけておくのがプロフェッショナルである。

私は批評家ではなく、今日も現場の教員である。コミュニケーション絶縁時代を教員として生きるストレスは決して小さくはない。

5 件のコメント:

  1. 先日放送されたNHK番組のプロフェショナルを観ませんでしたか?定時制高校の教員を取り上げていました。50歳には見えない若々しさでした。この番組についていろいろ言えばきりがないですが、この先生もコミュニケーションをいかにして築くか、と努力され、見事な職能でした。

    書かれている通り、ストレスを受けるからこそ、慰め励ます言動が与えられるし…、20日を楽しみに今日も楽しみます。あっ、フレーティ菅野さんは13日だけですか?20日は?

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  2. 結構重いですね。
    ソルトさんのご指摘どおり、今と昔ではコミニュケーションに、ちがいがありますね。
    諸行無常ですね。  
    たしかソクラテス?でさえ 「今時の若いのは」と嘆いたとか。
    とにかく以前は、部長、生徒会長、先生、議員、親、年上の人など、その個人の力に関係無く立てられていた立場が崩れている。
    ただ、わこうどのメール等の簡潔ながらもきめ細かくいコミニュケーション能力には驚く。
    彼らにとっていつもの輪からいかに嫌われたくないかの、言葉選びと技術はすごい。実に狭いところだけ、とくしゅつかしている。

    山田周生と言う方が、世界をバイクで回り、電気、ガス、水道の全くない暮らしをしている人たちほど見ず知らずの人に対する歓迎が暖かいと書いてますが。
    生活水準と交わりの希薄さは無関係ではないと思っている。
    実際に木を切ったり、野菜を作って見た人しかその大変さと大切さはわからない。
    鬱や自殺も生活水準と関係がある。
    今日働かなくとも、食べていけるなら人は働かない。働か無いならその喜びに気づく事もない。
    働かないなら神が人に与えてくれた額に汗する事も無い。
    額に汗して働くことは、勤めを果たした後の満足がある。
    本当に日本はゆたかだと思う。しかも急速にゆたかになってしまった。
    現状維持の景気を不景気とか大不況と呼ぶほどに。
    不自由の中の自由、貧しさの中の豊かさ、愚かさの中の賢さ、死は生を覚醒させる 神のなさることは時にかなって美しい。
    どうぞ、平安がありますように。
    よろしければそのうち一度、長野来ませんか。体を離れては心は休む事が難しいと思います。

    最近、やけにお節介な電気やより

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  3. 銀じ郎さん、どうも。TV見てないです。またDVDあればよろしく。20日フルーティーさんにも声をかけていますが、まだ確約はいただけてません。偉そうなことを書いちゃいましたが、私の職能もまだまだです。

    電気やさん、お誘いありがとうございます。長野は大好きです。近い将来、何とか時間を作ってお邪魔したいです。

    ケータイはコミュニケーションのかたちを大きく変えちゃいましたね。大切な間合いや空気感、ことばに付随する様々な情景が消えてしまいました。これは取り戻しようがないほど大きな文化の喪失だと感じています。

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  4. 挨拶ができないのは先生も同じでしょう。

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  5. 今日は信教の自由を守る日ということで、十数年振りに参加してきました。
    講演を聴いて思ったことは案外と憲法は身近なものである、でした。
    さて挨拶が出来ない、しない、したくないというのは、そういう現場での話し合いから変えられる、変えていかなければならないものである訳で、日の丸君が代を押し付けられ、まさか、はい、そうですか、という訳にもいかないし、処罰も覚悟しなければならない状態で、いかに憲法や法律、思想信条を守る事が出来るか、の最前線が教育現場である訳で。

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