「天才バカボン」のストーリーは、バカボンとパパとの馬鹿馬鹿しい日常のやりとりが軸になって話が展開していく。
私は、このシュールな世界がバカボンの日常の客観的な写生ではなく、すべて「小学5年生のバカボン」の視点で書かれていると読む。
つまり、「小学5年生のバカボン」が、自分を取り巻く世界と自分と関わりの深い人物、周辺で起こる出来事を見つめ体験したように描かれているのだ。だから、パパはいつもバカボンと遊んでいて、おまわりさんはピストルを撃っていて、レレレのおじさんは街を掃除しているのだ。それがバカボンとの接点だからだとすればすんなり理解できる。著しい誇張や急な展開もバカボンの心象や記憶の再生時の脚色であるという見方も出来る。
バカボンは常にパパと絡みながら悪ノリをエスカレートさせていくが、いつもどこかでヘマをする。このある種の軽快さと愚鈍さ、そしてパパのツッコミに対するボケの上手さとタフさが、パパと同じようにバカをやるがどこか「素」の部分があり、バカそうなのにどこまでもバカじゃなく、穏やかでニュートラルである。そういうキャラクターがパパの奇妙さを浮き立たせているのだが、これも赤塚がバカボンを視点としたからだと見れば理解しやすい。
バカボンには、「一般的な天才」であるはじめちゃんという弟と、「綺麗で常識的な」ママがいる。バカボン一家の半分は極めてフツーでマトモなのである。この時々、登場するふたりが、物語のリアリティーを深める。しかも、ママや弟がとんでもないふたりを自然に受容している描き方なのが凄い。
この漫画のタイトル「天才バカボン」であり、決して「バカボンのパパ」ではない。パパは「バカボンのパパ」として登場し、読者も「バカボンにとってのパパ像」を見ているのである。パパ本人も「ワシはバカボンのパパなのだ」とバカボンの前で語るわけだ。「本当の天才」はパパでもなく、はじめちゃんでもなく、凡庸に見えるバカボンのバランス感覚に宿っている。
バカボンがパパから学んだ人生哲学について、Salt流に解説しよう。
混沌とした不条理な世界を「これでいいのだ」と受け入れるパパの哲学は深い。「これでいいのだ」は、「あれでいいのだ」でも「それでいいのだ」でもない。パパの世界観には自分自身もちゃんと含まれて相対化されているというわけだ。そんな自分自身の有り様も含めて否定しつつ、全てを引き受けるという決意の表明である。それ故、パパは鋭い人間洞察と深い厭世感を持ちながらも、自尊心を失わず、エネルギッシュである。「反対の賛成」とは、相対する立場も結局は同じなのだということ、「忘れようとしても思い出せない」は、結局人間は歴史から何も学ばず、その本質は変わらないということを意味している。こうした哲学をバカボンはパパと遊びながら、楽しく身につけていくわけだ。辛く、悲しい、どうにもならない現実は、とりあえず笑い飛ばすしかない。哲学書が漫画より高級だとは思わない。私は常々、赤塚をサルトルやニーチェに並ぶ知性だと言っている。 バカボンのパパは、自由の刑を楽しむ真のツァラトゥストラである。
バカボンファンの方も、そうではない方も、赤塚がバカボンの視点で描いた世界として再読されると新たな発見があるはずだ。「おそ松くん」で名声と表現上の自由を得た赤塚は、かなり実験的にこの作品の連載を続けることが許されたようだ。
後付け可能な理屈はいろいろあるだろうが、すべてはそれほど意識的なものではないかも知れない。おおそらく「遊び感覚」の中でキャラクターがいきいきと動きだしたものなのだろう。要するにパパとバカボンはふたりとも赤塚の分身なのである。
一見深そうで、浅いことが多く、
返信削除浅いような中に、深い真理が隠されている事もありますね。
ソルトさん、良いネタ次々と持ってきますね。
そんなことされると、コメント癖が付きそうです。
今日トヨタ社長のコメントで、「トヨタは、全能と考えていない、、、」とコメントがありましたが、
誰も、そんなこと考えたこと無いわ!
そんなものは、高度成長時代の日本の神話!
話し方や、声のトーンは持って生まれたものもおおきいので、何とも言えませんが、あのように、いかにも世界のトヨタと自らが思っているかのような話の出し方は、なんだかなー。
たしかに、あのシーンで「これでいいのだ!」とは、言えないでしょうが、多くを語らない方が、かしこいなーっと、自分を振り返ると、んー、
まあ、こちとらは、社長でもなんでもないし、なれないし、なる気もない、そもそもそのようなタレントは無いと思っているので、、、あれ多くを語りすぎ、私?
私は、私、これでいいのだ!
私も電気屋さんのコメントがないと寂しい感じになってきました。
返信削除私は、本当にバカボンには慰められたんです。信仰なんて何もないときに、「これでいいのだ」と言えなければ、今の私はいなかったと思います。
何しろ高校の時にニーチェの影響で文化祭のテーマは「偶像の黄昏」にしようと主張したり、サルトルが言うように、「人は自ら規定するところのもの以外ではあり得ようがないので、他人に生き方や進路に口出しされてたまるか」と学歴社会のヒエラルキーに反旗を翻していたのです。
かと言ってニーチェやサルトルの思想に憧れていたわけではなく、こんな認識には何の意味もないと感じていました。崖っぷちまで地図なんてそんなにありがたいものではないじゃないですか。
でも、バカボンにはウナギ犬とかがいましたから、造形やデザインには何か可能性と突破口を感じていました。
そんなわけで、勉強しないで絵ばっかり描いてて、挙げ句の果てに、アートの世界にも糞みたいな受験勉強があることを知り、芸大受験をやめてしまうわけです。
何をやってんだか・・・という10代後半でした。そして、ついに「これでいいのだ」と言えなくなった瞬間に聖書と出逢ったのでした。
どうもありがとうございます。
返信削除でも、そのような書き方していただくと、書いちゃいますよ。
自分で良いと思いやってみて、うまくいかないことばかりでしたが、
神に従って、ただの一度の失敗もない。
いつも神は私によくしてくれる。
いままでの自分の考えの間違いに気づき自分中心から自分を造った方中心に向きを変える。
そうしてクリスチャン人生と言うものを歩み出すと、そこに有るのが聖書で、そこには、多くの律法が書いてある、クリスチャンとしてそれが大切だとがんばるが、がんばればがんばるほど神から離れていく自分を知る、そこで、悔い改めが。(それは毎日必要とも言えるものですが)
主と共に歩む、これ以上の楽しみは無い
振り返るとよくまあこんなに色々とありましたが、でも
これでいいのだ!
過ぎてしまったことは直すことは出来ないけれども
今から先には、まだ誰も歩いた事のない新雪の様に失敗したことすらない人生がある。
1歩踏み出す、今が過去になり、未来が今になる。
ゼイゼイという、私の息づかいと共に
牧者の存在がそこにはある。
イエスもそういってくれていうような気がする
「これでいいのだ」
今日もこの方と一緒に過ごすのだ。
追記
崖っぷちまで地図の意味をおしえてくださいませんでしょうか?
失礼します。
崖っぷちまでの地図ですか・・・・
返信削除ニーチェは「神が死んだ」と言って自分が死にました。サルトルは「私は密室で聖霊を追い出した」と言っています。
彼らのキリスト教批判や神を抜きにした現実理解は大きく間違っていないと思います。そういう意味で、彼らは人間の知性や理性の限界まで行き着いた人たちだと思っています。
でも、そんなものは救いになりません。そして、彼らは確信犯としてキリストを拒んでいます。
崖っぷちからの地図は、もちろん聖書にあるのですが、聖書は崖っぷちまでいかなくても、その気にさえなれば、いつでもどこででも読めるからです。
電気屋さん、下のコメントを読みました。
返信削除有難うございます。ほっとしております。
で、崖っぷちからの地図って、お分かりになったのですか。
私は分かりません。(^^)
教えて下さい。
今日は、町内会の除雪車が入る日で、規則では道路に
雪を投げないように、と言われていますが、
この日のために玄関脇に貯めた雪を道路ぎりぎりまで
出すのに大忙しで、
電気屋さんの書かれた、「刈り取り」も
ずーと思案の続いている事でしたから、言葉が出てきて
驚いています。
又、刈り取りに関してもお話が聞けたら嬉しいです。
春が近いと思える北海道からでした。(^^)
オネシモさん、どうも
返信削除崖っぷちまで地図の意味は、私なりにですが、人生を旅に見立て、色々な先人の歩まれた足跡を
文章で残した地図の様に考え、
哲学を押し進められた方々の中には、
私のような凡人ではとうていいけない所まで、
行き着いた様な方々がいます。
崖の先がどうなっているのか、死んだ人が戻ってこないように、その先はわからないと。
それにしても、人生の終わりである、死、と言うところまでの手ほどきでしかなく、人生の先である
崖の向こう、天国としても良いかとおもいますが、そこまで、見据えて今日を生きる地図は、そこからこられたイエス以外見据える事が出来ない。と、
当然、行ったことのない所を地図で表すことは、できませんから。
デカルト、カント、ショウペンハウエルなども、人生が死んで終わりならという、考えの基に生き方(死に方?)を説くのと、
一度死んで後の人生の方が遙かに長くしかも、今の人生が永遠の選択に強く影響すると
知る方の説く地図とは、
私に最善のルートが時には、その2つの地図では真逆になることもある。と、
だから、崖までの地図はいらないと、の意だと
考えました。
違っていたらソルトさん赤ペン先生お願いします。
刈り取りの話私も興味深く考えています。
また、お願いします。
こちらも春が近いと思える長野です。
今年は、フェリーで家内と北海道いくぞーと、かんがえてますが、、、どうなるやら。
クサいサスペンスドラマの残り10分くらいに崖っぷちシーンがよくありますが、そういうベタなイメージでもいいでしょう。
返信削除結局古今東西人間の考えることにはそう大きな差異はないと思います。名前や著作を残すとか残さないとかではなく、誰もが逃げ場のない崖っぷちに立って刑事に追いつめられる場面というのがあります。
「この世は自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵による」のですから、崖っぷちからの地図であるみことばが必要なのです。
多くの知者は崖っぷちにいながらも、高い塔を築いた気でいます。そこに問題があるのでしょう。
認識の塔の上に自身を棚上げして、他者や世界を見下した末に、塔はそれ自身の不完全さのゆえに、バベルのごとく崩れます。高い塔ほど崩れたダメージが大きい。人は己の重さの故に堕ちていきます。それを刈り取りと言い換えてもいいのでは。