2011/01/07

たった今の私


いよいよ本格的に仕事が始まった。子どもがやって来ると、嫌でもからだのスイッチが入る。食事を終えるとさっそく長時間の会議。ふぅ~。こっちは省エネモードに切り替える。

週5日制が始まってから、職員一人ひとりに委ねられる自由な時間は年を追うごとに短くなり、創造的なゆとりなど殆ど無くなってきている。勤務時間内にやることと言えば、無理矢理の連携や内容的拘束の強いものばかりで、「私みたいなのがよくやっているよなあ」と、最近は感心するより半ば呆れてしまう感じだ。抵抗するよりも順応している振りでもした方が無駄なエネルギー消費は少ないことも経験によって少しずつ学んだが、決して全く順応したわけではない。

本当に神さまの憐れみによる配剤に守られてこそ、私は辛うじて私であることを保ちつつ、笑っていられるのだと日々感謝している。まさに空中ブランコや綱渡りのような毎日だ。上司や同僚にも私なりの立場から見た多少の意見はあっても恨み言は全くない。上手くいかないことは、すべて私の不徳の致すところである。まだまだ改善の余地も残されていると感じている。

子どもは私がどんな人だかよく知らない。だからこそ、「目の前の子どもが、今、感じて反応すること」には高い信頼性がある。

それはまさに「たった今の私」に対するシビアな評価なのだから・・・・。

6 件のコメント:

  1. Salt さんとは、
    全く仕事や時間のパターンが違っているのですが、

    「本当に神さまの憐れみによる配剤に守られてこそ、私は辛うじて私であることを保ちつつ、笑っていられるのだと日々感謝している。まさに空中ブランコや綱渡りのような毎日だ。」

    という事では全く一緒です。
    綱の太さや強さを誇る愚かさは捨て置き
    落ちない事が神の主催する見世物小屋で仕える私たちのとりあえずの課題かも知れません。

    人がアダムに似せて造られた事は
    神も人に似ているとも言えるわけで
    「たった今の私」に対する神の目を受けて今日を過ごしていけたらと思います。

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  2. 電気屋さん、コメントどうもです。

    確かに私たちの見かけのライフスタイルは全く違いますが、その本質においては物凄く似ていますね。

    サーカスの語源はラテン語の「円」を意味していて、円形の演技場のかたちに由来します。

    ちなみに、綱渡りは、演者の運動神経ではなく職人が作ったロープの強度を披露するためのデモンストレーションとして始まったそうです。

    つまり、「私たちではなくロープがすごいんです」というのは悪くないのかも知れませんね。

    さらに、万一足を滑らせた場合でも、命綱や安全ネットも万全ですから、私たちは道化師よろしく、クリスチャン・サーカスを楽しめばいいわけです。

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  3. 「上司や同僚にも私なりの立場から見た多少の意見はあっても恨み言は全くない。上手くいかないことは、すべて私の不徳の致すところである。まだまだ改善の余地も残されていると感じている。」

    全くそうですよね。
    神さまにあって私が楽しんでいることが、結局、周囲の人にもよいものをもたらす、と思うようになりました。

    エペソ書からのメッセージも楽しみしています。

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  4. なるほど昔の縄は均一な強度を出すことは難しかったでしょうから納得です。
    主の用意された綱なら多少誇ってもいいかもです。

    確かの万一でも万全なのが主のなさることで
    過去には主の保険に入ってるんだから保険などは入る必要は毛頭無いと割り切っていた時期もありましたが、
    あれは本人の為にあるのではないので最近は入ってます。

    伝道師や牧師ってのはどうもですが、
    道化師はなんかいいな。

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  5. 銀治郎さん、どうもです。

    みんなそこそこ「辛抱」してるんですが、本当に周囲の人を思いやってではなく、くだらない自己保身の為であることが多い。これが全くもってくだらない人間関係の接着剤になっているわけで、私は楽しみますよ。今年も去年以上に。人の為に辛抱しても自分のために我慢はしません。

    エペソは圧倒的にことばのスケールがでかいので、思っていたより手強いです。只今格闘中です。

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  6. 電気屋さん、再びどうもです。

    私も保険が大嫌いでした。主にのみ信頼することと反していると思っていました。でも、電気屋さんと同じ理由で考え方も変化しつつあります。学資保険は正直助かっています。まともな奥さんが付いていてくれて良かったです。

    確かに道化師はいいですね。牧師よりずっといい。人の子や十字架なんていうのも、一種の神の道化ですもんね。

    「宣教のことばの愚かさ」ということばを想い出しました。

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