2011/01/05

年頭に念頭におきたいこと (その壱)


私は協調性が乏しく、チームプレーは苦手だ。ところが、サービス精神はけっこうあって、争いごとは嫌いだ。そんなわけで、無理矢理束ねられた集団が気まずい空気で長時間放置され、その一員であることから逃れられないような状況のときは、「~すれば、いいんじゃない」的な発言はしてしまうことが多い。

それで、学生時代は「傑出したリーダーシップがある」などと通知票や内申書に特記されたりしたが、本人的にはあまりピンと来ていない。決して「みんなをよりよい方向へ導きたい」などと思ったわけではなく、ただうっとおしい時間をダラダラ共有したくないからという理由の消去法による選択なので、結果がよくても私の言動は少しも立派ではない。維新の志士たちのごとき志なんて持ったことはない。

今もそういうリーダーの姿が求められると、実はしんどくてたまらない。ある目標に向かって全員一丸で突き進むのはあまり好きではない。たいてい私だけがみんなとは全然別のことを考えているからだ。みんなが盛り上がっているときにひとりだけ醒めきっていたり、みんなが緊張しているときにひとりだけゆったり構えていたりする。

「みんなと私いう括り方は子どもっぽすぎる」とは思わないで欲しい。一人ひとりが中心になれば、頭数だけの「みんなと私」の地図が出来上がることは子どもの頃から知っている。だから、人が一致団結するなんてはじめから無理があるのだ。その乱暴で強引な一致のために目先の利益で気持ちを誘導して予定調和へ導く空気がたまらなく嫌いだということだ。

とりわけ、宗教に見られる一致や感情操作の誘導は一番の苦手。誰かに導かれて、その人と同じ思いや同じ気持ちになることなんて絶対あり得ない。

ものすごく頑張っている人の頑張った記録を見ると、「すばらしいな」と思うよりこっちまでしんどくなってくる。

いわゆる一般的な意味において教会や学校の「先生」に期待される資質は、私にはほとんど皆無と言ってもよい。カント哲学的な意味における道徳的な正しさも極めて乏しい。

私を道具として使う方がなぜか私を選んだだけのこと。私は主権を手放したので本当に楽になれた。使い手が器用で有能なので、私とてたまには役に立つことがある。それを深く感じたときは、「私は私でよかった」と思える。おかげで私はかつてほど自分が嫌いではなくなった。私は多少人よりつくりが繊細に出来ていると思う。アメリカザリガニのように汚い水には住みにくい。アユのように、山間の渓流に住み、己のテリトリーを大事にする魚に似ているかも知れない。それ故、同じ水槽に入れられると、ザリガニの後ずさりに戸惑い、大きな鋏に傷つけられることもある。

2 件のコメント:

  1. アユはきゅうり魚科なので
    キュウリかスイカの様な匂いがします。
    天然の環境でないとその特色も無くなってしまう程
    デリケートな魚でもあるので
    どうぞより良い環境で良い香りを放ち続けてください。

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  2. 食べる苔のせいらしいですね。

    養殖したものをちょっとだけ川に泳がせて香りをつけたりすることもあると聴きました。

    生き物としての本能を失うのはさびしいことです。

    みことばを食べないとキリストの香りを放てませんね。

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