2010/06/26

水の上を歩く

今更ながらだが、私は特に「子どもが好き」というわけではないし、「学校」という仕組みや場所は「警察」と「病院」の次に嫌いだ。私は地方の何でもない美術館とか図書室とか、それほど混み合わない静かな場所が好きなのだ。

チャイムやカリキュラムや、あらゆる決まりや薄っぺらな目標や、追い立てる雑務や、わずらわしい人間関係に納得したことはただの一度もない。

イエスがナザレで30年間過ごされたという事実がなければ、私は100%教師などしていない。逆に私が学校で過ごすことは、そうしたイエスの追体験としての学びの要素があるからこそ価値を認めているのであって、仮に「良い先生」であるような一瞬が私の日常に認められるとしても、それは「良い先生であること」を目指した結果ではない。私は断じてそういう者にはなりたくない。

目の前にかわいい子どもたちが困っている状況があれば、何とかしてやりたいとは思うが、そんなことは評価すべきことではなく、大事なのはプロとしての「その手立ての正確さ」であるべきだ。そうした意味でのスキルはまだまだ未熟だし、この世界に身を置く以上は真摯にそれを追求しなければならないと思う。それが出来たとしてもそれはただの教師の標準であって、取り立てて評価すべきでさえない。それは「無農薬野菜」とか「有機農法野菜」とかいうレッテルみたいなものだ。野菜はそもそもそれが標準だと思う。

現場の真実を知っている教師は、机上の空論で自己完結する大学教授の話がいかに空疎かを日々確認している。

人が生きるということ、子どもが育つということ、そしてそんな人々が絡み合う世の中は、本や資料をつなぎ合わせた式やモデルで表せるほど単純ではない。脳みその中で空転する理想で世の中はまわらない。

小さな現場で長い時間留まれば、人の営みの難しさがわかる。イエスはナザレで、そこに暮らす人々と生きられたのだ。

私は偉そうにメッセージしているが、いつも信仰的というわけではない。イエスから目を離して湖に沈むペテロのごとく、日々水没の危機にさらされている。

私には教師の資質がそもそも足りないので、仕事を自力で乗り切る力はない。私にとって教師の仕事は、まさに水の上を歩くのに等しい。私が何とかやっていけているのは、ただ主の召しと導きの確かさのゆえだとつくづく思う。

今年はメチャクチャしんどい。思ったようにいかず、柄にもなくイライラすることも多くなった。そんなとき、そもそも私はここにいるはずじゃないのにここにいるのはなぜかを思い返す。そうすれば、静かにまたゆっくりと水の上を歩けるようになるのだ。

4 件のコメント:

  1. 担任業を離れて4年目ですが、あの忙しさを思い起こすと、ゲンナリとします。でもポイントは「水の上を歩く」ですよね。
    どれだけ忙しいとか、どんなふうに頑張ったか、なんて関係ないですね。

    同じ職種が4年目になる私は、歩けているように勘違いしているけど、ここは本来歩けるところではない、と考え直します。

    うまくいっても、うまくいかなくても、主にあけわたしていなければ何の意味もない。

    ああ、「そんなの関係ねぇ」「大丈夫、大丈夫」「何の意味もない。」という小島よしおくんのギャグがつい口に出る。
    すると、テレビのよしおくんのように理解できないやつとシラッとされるのだけど。

    考えてみれば「KY」など、本人が自覚できていれば大きなお世話ですよね。

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  2. 銀じ郎さんも実感しておられると思いますが、今の公立小中学校の業務は、平均的な仕事をしていても、恐ろしく忙しいだけでなく、とてつもなく面倒です。多くのセンセイたちは立ち止まって感じたり考えたりするゆとりもなく、仕事に追われている現状でしょう。ほんま気の毒です。かく言う私も現状はけっこうカワイソウですが、主にあってエンジョイしてます。

    私のように仕事をして、私のように遊んでいる人には、ほとんど出逢ったことがありません。

    私は自分のゆとりと楽しさを分けてあげたいので、こうして発信しているわけですが・・・

    ある人たちには、あんまり正確に伝わっているとは思えませんが、まあそんなことどっちでもいいや。

    わかる人は私と出会わなくてもわかるでしょうし、わからん人は何がおこってもきっとわからんでしょう。

    クリスチャンであれば、どんな職業にあっても、仕事以上の意味があるわけで、それを世に属することだと思っていること自体が根本的に間違っていると思っています。

    百人隊長でも取税人でも、その世界での学びがちゃんとあるわけです。

    イエスを驚かせるような信仰はいわゆる「イスラエル」にはないのです。

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  3. 人それぞれが、置かれた場所で、生業等で神様が示されることは当然違うでしょう。
    神様が「学校」というシステムの存在を、この世で許されているとしたら、その独特なシステムに起因する「学び」が用意されているんでしょう。
    それを静かに聴ける自分でありたいです。

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  4. 人が生きていく上で、「仕事」というのはかなり大きなウエイトを占めています。

    すべては「影」であり「模型」です。

    「信仰による実体化」がなければ、影絵かプラモデルで遊んでるみたいなもんですな。

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