ひと雨ごとに涼しくなってきた。教室前の廊下に心地よい風が吹き込み、「麦」の文字が揺れていた。
春から蒔いた種は教室でも実りつつある。
うまくいかないこともたくさんあるが、そんなものは別にうまくいかなくてもいいのだ。
ただいのちは育つ。
4月と9月に身体測定があるが、子どもの背丈はたった5ヶ月の間に平均3cmも伸びている。
私が引っ張って伸ばしたんじゃない。
夜回り先生こと、水谷修氏の講演を聴いた。
自身も悪性リンパ腫と闘いながら、今も金・土は夜11時から明け方まで夜回りを続けている言うから驚きだ。
今日もからだの左半分が痺れていたそうだが、2時間弱の講演を力強く全うされた。やはり、この人ハンパじゃない。
「子どもに罪はない。大人が全部悪い」という彼のベーシックな論点には批判もあり、私もいささか意見はあるのだが、今日ばかりは言うまい。書くまい。彼と夜の世界に生きる子どもたちが紡いできた圧倒的な事実は、誰も簡単に批判出来るものではない。
「私をちやほやする暇があったら、それぞれ自分の場所でやるべきこと、気がついたことをやれ!」と言うのが、彼のメッセージの核心である。これには大いに共感できる。私は昼の世界の子どもたちの幸せのために自分のやるべきことを淡々と続けるだけ・・・・ そう思った。
水谷氏を突き動かす原動力は、回復して生きる力を取り戻す子どもたちの笑顔と、それ以上に大きなものは、救いきれず失った子どもたちのいのちの償いの想いである。
水谷氏は「その子たちは私が殺したのだ」と言う。これは方便ではない。本気のことばだと私は受け取った。キリスト教風の臭い表現を使うなら、水谷氏はそれを自分の十字架として背負いつつ、今日も夜回りや講演を続けておられるというわけだ。
まるで再現ドラマを見せられるように、リアルに子どもとのやりとりを語る水谷氏。事実だけに圧倒的に力があり、彼の無念の思いも伝わってくる。会場のあちこちからすすり泣きが聞こえる。
ここで、「感動した」「いい話だった」で終わるわけにはいかない。
翻って、私たちが殺した御方はイエスである。クリスチャンはこの御方の十字架を背負いつつ語るのだ。いかに水谷氏が人間ばなれして立派だろうが、福音のメッセージが彼の講演よりもショボイようでは話にならんと思った。これが最も強く心に刻んで自戒したことである。