2010/03/05

信仰と群れ①

日本の伝統的なムラ共同体には「世間体」という不文律の覆いがかかっている。

「世間」は、覚醒した自立的な自己主張を敬遠し、程度が一定の容認を越えるとそうした「自己」は孤立させる。そのような環境では意識的に「世間」に立ち向かう「自己」は育ちにくい。「自己」を圧迫する「世間」は「自己」の集合体ではないので、「世間」の仕業に対して誰も責任をとらない。ムラ人であるという資格は、自由を売り渡して責任を放棄することによって得られる。

「村八分」ということばに表される阻害を合理化する空気は、あらゆる社会の小集団においてはいじめを生み出す素地を作っている。根本的には日和見主義でエゴイスティックでありながら核になるエゴが育ってないのがムラ共同体的日本人である。

それ故、ムラ共同体的日本人がキリスト教徒になっても、単なるお引っ越しに過ぎない。所属するムラを変えるだけなので、相変わらず「自己」はない。だから、「どちらの教団ですか、○○先生の教会ですね」などという自己紹介と認識の仕方になるのだ。「○○ムラの××べえ」でいることに安息するのである。

彼らは年貢を払うように献金を納め、田んぼを耕すように割り当ての奉仕をこなす。領主が横暴になると騒ぎ出すのである。

そして、彼らの美徳であるムラ共同体的な仲むつまじさも、実は「世間」という実体を持たない己の影法師に対する強烈な信仰と怖れが支えているものだ。

本質的な意味合いにおいて、「自己」がないところに愛は芽生えない。互いに寄りかかって支え合うことは信頼ではない。聖霊は、イエスとともに十字架に付けられてともに死に生まれ変わった「自己」がキリストのかたちへと変えてゆくのを助ける。ちょうどヤコブがイスラエルになっていくように。

聖霊の働きをムラ祭りに利用しようとする動きには驚き呆れる他ない。

神の前のひとりを自覚した個人が各々神から託された分を果たすような交わりにしか、兄弟愛などというのは存在しないのだということを念押ししておきたい。

2 件のコメント:

  1. 今年、ガラガラポンしていただいたことの一つに、教会のご奉仕がありまして…。信仰と群れ、とはまた考えさせられる文章です。
    昔々「教会と私」とことばに、のどが詰まるような思いをしました。以来、忘れられないことばです。当時「”教会は教会、私は私”なら語れるだろう。」とSalt氏にちゃかされましたが、最近は、まあ、いわゆる”キリスト教会”となら、教会は教会、私は私、でもいいかな~と思ったり…。

    ケリをつけなければいけないときが来る予感もするし…
    まいったな。

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  2. ムラ共同体の「いかがわしさ」というものに、私はとことん辟易としています。

    しかし、私は旧室生村に住み、「ふるさと元気村」に工房を持ち、田舎の公立小学校に勤め、決まった建物に集まり続けています。さまざなな形ムラ共同体と何らかの関わりを持っています。

    ポイントは、私が常に何を見ているか、何を優先しているかです。私は間違いなくイエスを第一にするので祝福を受けると決まっているのです。それは私が偉いのではなく単純な法則です。

    大阪から新幹線に乗れば3時間後には東京にいます。新幹線の中で走る必要も祈る必要もありません。正しく宛名を書いてポストに郵便を入れれば数日後には届いてしまう。内容の良くても、宛名が間違っていれば戻ってくるし、鞄に入れたままでは届きません。ただそれだけのことですが、わからん人が多いのです。

    本質的な意味での「交わり」が生まれようのない群れで関係性を持つことは、あらゆる意味で無駄であり害です。ただ「交わり」以外のことを学ばせるために、主がそこに置かれることはあり得ます。牢獄のヨセフや、獅子の穴のダニエルはそんな感じですしょう。名前が「学校」であれ、「教会」であれ、「○○市」であれ呼び方は関係ない。それらは、ムラ共同体なのです。つまり人との関係性を優先するのか、神との関係性にこだわるのか。それだけのことです。どこに居ても神は私との関係を持ってくださいます。

    自分の卑怯さを他のことばに置き換えるのは最低です。自分を傷つけた教会を抜け出してネットでなかまを探して喜んでいるタイプの人もこれから増えるでしょうが、こういう人は教会に残っている人と似たりよったりです。

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