2010/03/06

信仰と群れ②

「信仰と群れ」の問題は「教会と私」の問題に単純に置き換えることは出来ない。

ことばの定義の問題にもなるが、群れを作っているのは個人であり、そもそも私自身が教会だからだ。教会は「行くところ」ではなく、その名を呼ばれ召し出された一人一人が教会そのものなのだから。

群れを構成するのは、「私」という個人である。群れ全体の責任なんてない。責任はいつも個人に帰す。

モーセはイスラエルという群れの為に立てられ、同時に群れの一部として行動した。アロンは群れの関係性を優先して金の子牛を拝んだ。モーセは群れ全体の合意による偶像礼拝にとりこまれることはなかった。神との関係性を優先し、たった一人で群れに立ち向かったのである。ここにモーセとアロンの決定的な差がある。

群れはみな同じようにエジプトを出て来たのだが、主を見ていたのではなく、モーセという指導者を見、前後左右の隣人に合わせ、祝福にあずかって何となく流されてきただけだった。イスラエルという「ムラ共同体」の過ぎ越しという行事に参加していただけだったのである。

その結果、エジプトを出て来た世代で約束の地カナンに入ったのは、ヨシュアとカレブのたったふたりだけ。

「群れをなすこと」には、天にも似た祝福と地獄のような醜悪さというふたつの両極に至る可能性を秘めている。

グチャグチャいう奴はいつも誰かを引き合いにする。これもお約束。マリアを引き合いにしたマルタ然り。取税人を引き合いにしたパリサイ人然り。

主の前にひとり出ること。これに尽きる。

4 件のコメント:

  1. 教会と群れのちがいその通りですね。
    牧師や教会に従わない事はイエスに従わないわけではない。キリスト教会を出ることがイエスから離れる事でもない。(回りはガヤありますが)

    エクソダスすることは、硬くなった自分という殻を脱いで完成形であるキリストに近づく行為だと常に感じます。生みの苦しみはありますが、ケリをつけてくださるのは、いつもキリストで私はついていくだけ。本当に食べ頃の実は向こうから手の中に落ちてくるもの、

    硬派銀じ郎さんお気持ちお察し致します。 その時が来たら押し出されるだけ 。私たちはただ上に向かって手を伸ばすだけ、平安がないならマナを取りすぎて臭くならせます。今日は今日だけそれで十分ですね。

    伝 3:6 求める時、失う時/保つ時、放つ時 ありがたいことです。

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  2. 今日は今日だけそれで十分…そうですね。

    「信仰と群れ」が「教会と私」に置き換わらないことも、わかります。

    教会のことにかかわる時間が減ったから信仰が薄くなった、など考えないし、おかげさまで?気になりません。家族や仕事のことなど、私の日常で主に向かうことが当たり前で、霊的な成長とか話し合うこと自体、関心事でなくなってきました。私という「教会」と可見的に地域にある「教会」との関係を、どう主から示されているのか、正直わかりません。

    いつか主が整理してくださるでしょう。それまでは、もっと優先順位が上、と思われることに向き合っていきます。
    今日は今日で十分です。

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  3. 教会はたしかにわたしらです。
    でも個人は教会の1ピースという理解です。
    教会ですが、教会そのものではない?

    群れ、確かにそういう理解でいいと思います。
    パウロの教会の群れに対して語っていたのだと。
    (個人なら固有名詞で呼びかけていた)

    御霊が諸教会に言うことを・・・・
    とあるのは、明らかに群れのことを指しているのか。

    私はキリストの1ピース。
    教会とは神経で繋がっていて、傷つけば、痛いと体全体が反応するんです。

    昨今、この神経が無神経化しているのがちょっと心配なのです。

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  4. イエスはいつも弟子と群衆を区別されていました。

    弟子たちという群れは、群衆というムラ共同体とは違いました。

    弟子は十字架を負う者です。群衆は祝福を追う者です。

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