2010/03/30

奇跡より軌跡

ゆばるさんのご子息の大学が、これからわが息子がラストチャレンジしようとしている学校だとわかって、私は本当に驚いた。主がゆばるさんのご家族を遣わしてくださったのだ。それは気持ちがキレかけていた息子にとっても大きな励ましになった。

「もしかしたら、これはイケルかも・・・」と思った。

「奇跡は鈍い奴のためにあるんです」「エジプトであれだけ奇跡がなければ民は出て来れなかったでしょう」と電気やさん。確かにそのとおりだと思った。

電気やさんのことばを聞いて、「私は鈍い奴なので、きっと今回は奇跡がおこるぞ」と、妙な自信も得たのだが・・・

どっこい、そうはいかなかった。

今回、息子は「合格するよりもさらに良い結果」となったわけだが、なかなか生身のSaltファミリーにとっては、それはかなり厳しいものである。

単なる合否ではなく、息子なりにこれまでいろいろと辛い思い(勉強のことではなく)をしてきたので、今回ばかりは最後の最後に逆転劇があるのではないかと期待していた。何とかちょっといい思いをさせてやりたかった・・・・というのは浅はかな親心。

しかし、さらに深い愛と知恵は、息子を奈落の底へ突き落とす。

私たちの信じる神には、御利益などまるでない。

なぜなら、イエス御自身が祝福の中心であるから。

私たちはこの御方に触れることなしに他の何を得ても無意味である。逆に、この御方に捉えられていれば、私たちはすべてを得ているのである。

ここ数年の間に、大きな喪失や、思うままにならないことをいくつも続けて体験する中で、改めて「私たちにとって主はどなたであってどんな方なのか」をしみじみと味わっている。

しかし、一連の決して望んではいない厳しい現実の中で味わっているのは、「見放された」という失望感ではない。むしろ「私たちは覚えられている」という甘美な喜びである。私たちは「祝福を失った」のではなく「祝福のただ中にある」ということだ。 御自身の掌に刻まれ、ひとみのように守られているということなのだ。

そんな「あたたかいしるし」が、私の落胆や失望をはねのけて、私の心の奥底から溢れ出てくるのを経験している。これはとても不思議な体験で感覚だ。それは辛くて悲しくて、押さえきれないほどの感情を伴いながらも、なぜかその傷口からキリストの香りがするのである。

電気やさんからいただいた手作りのスパークリングワインを飲みながら、交わりの中で「葡萄はつぶされて発酵することで腐らない(永遠のものになる)」と話していたことを思い出した。

私は未だ些細なことに一喜一憂する小さき者にすぎないが、神が真実な御方であることはちゃんと心得ている。

クリスチャンにとっては、奇跡よりも主に従った軌跡が大事。見ずに信じる者は幸いである。


【追記】
家族のために祈っていただいて本当にありがとうございました。多くの励ましのことばに心から感謝します。

7 件のコメント:

  1. 私たちの信じる神には、御利益などまるでない。

    まるで絞り出されたかのような言葉、感謝です。
    アブラハムが、何も持っていないとき
    「あなたの受ける報いは非常に大きい」と語る方
    あえてこの世の王達から祝福を拒むアブラハム
    神の祝福をわかっていても
    「どのようにして知ることができましょうか。」 語るアブラハム

    彼の神に捧げたものに群がるハゲタカを追い払うアブラハム

    さらに、ひどい暗黒の恐怖が彼を襲う
    「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」


    世にあって肉をまとう私たちは弱い
    こうなら良いな、そう思いたい
    そんな人の思いをこして純粋なオリーブの油を取り出す
    ワインを取り出すためにうち捨てられる沢山のカス
    それは畑に高く積まれ、ただ置かれたままにもされず、
    繰り返し覆されることで、上質な土になる。

    葡萄は雨が少ない所ほど甘い実をつける
    そんな葡萄からしか「良い」ワインは出来ない。

    口をつくられた主は語られる 神
    「あなたは私を得たのだ」

    心より申し上げます。
              「おめでとうございます」

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  2. 見通しが立たない、意味がわからない、そういった状況の中で主にささげるもの、主ご自身とのかかわり、を求められることがありますね。Salt氏の文章を読み、とても考えさせられます。

    Saltファミリーに主の祝福と導きが増し加わりますように。

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  3. 神様が、いつも「なんで」と呟く愚か者に示して下さったブログだと受け止めたいです。
    本当に神様と共に歩む、神様を仰ぎ見るって何かを考えさせされました。

    ご家族皆さんに神様の大いになる恵が施されますように。

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  4. 私たちの二世たちが、あそこで出会えたことの意義は、まだまだこれから明らかになるのだと思っています。
    親たちの目がかすみ、耳も遠くなってきてから「ああ、そうじゃったのか!」ってなことになるかもれませんし・・・。

    息子さんのご意向次第ですが、9月入学に向けて8月にAO入試を受けるという可能性も残されています。
    (難関であることは変わりませんし、少なくとも数ヶ月の集中的な準備が必要ですが)

    今は心の整理がつくまで、少しゆっくりなさってください。

    (よかったら私のブログにアップした動画でもごらんになってください)

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  5. みなさんのあたたかいコメントに心から感謝します。

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  6. ブログを読ませていただきながら思い出します。
    5年ぐらい前Saltさんとはじめてネットでやりとりした時、
    私は自分の息子の問題がわかったさなかで、
    毎日泣けてしかたなかった時でした。
    そして泣いてしまう自分をまた責める自分がいました。
    その時Saltさんの書き込みを通して
    泣いてもいいんだ、と思えました。

    それは、それを超えて、その奥深くに
    「甘美な喜び」
    「私たちにとって主はどなたであってどんな方なのか」
    味わってゆくことなのですね、と、あらためて思わされます。

    これからもSaltさんとご家族の皆様と兄弟姉妹の皆様と
    お一緒にそのことを味わってゆきたいです。

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  7. meekさん、ありがとうございます。

    もう5年になるんですね。

    子育てをしながら、育てられている「自分」がいます。

    父なる神は、育てる神です。

    そして、イエスは人として母の胎に宿り、生まれ、少年期を過ごし、両親に育てられてくださった。これは驚くべき事実ですす。

    完全な御方が、「人として成長し、人として学ばれた」と聖書は書いています。

    人が神を知り、いのちの道を学んでいくということは、簡単なことではないですね。

    今回のことでも、しみじみと主のお取り扱いの豪快さと繊細さを見せつけられております。

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