2010/03/25

神のまなざし

今週のメッセージ『ヨルダン川を渡る』の中に出て来た「自分ではない自分を演じることによって、心が空洞化してしまう」「よい子が引きこもる」という部分に反応があったことが後の交わりの中で少しずつわかってきた。

それぞれに自分の経験や現状に当てはめて振り返ってくださったからだと思う。複数の兄弟姉妹からそうしたお話を聴いて、私になりにいろいろ思うことがあったので簡単にまとめてみたい。

人はなぜ「よい子(人)」でありたいと願うのか。

それは他者からの承認を得るためである。
「なかま」や「権威筋」からの承認を得るためなら、自分では納得のいかないことや、やりたくないことまで、人はやり続けるものなのだ。

「よい子(人)」であろうと志向するエネルギーや環境が整っている人はその方向で努力するし、逆に、それとは反対の環境にいる人は、あえて「悪い子(人)」であろうとする傾向を持ちやすい。

それは、人は本来別に「よく」も「悪く」もなく、ただ善悪の木の周辺へと解き放たれているという証拠なのだと思っている。いずれも承認を得るための行動であると見ると理解しやすい。承認を得ることによって得るものは、「善」でも「悪」でもなく「快」なのだ。

「よい子でいよう」「周囲に期待される自分でいたい」と思うことが悪いことなのかと言えば、そうではない。「快」を得るための道筋としては、「悪」よりも「善」を志向することの方が正しい。それは「快」はそれ自体が悪いものではなくよいものだから。

人間の成長や人格形成には、そうした「養育係」は必要なのだ。ここでは詳しい説明を省くが、聖書をよくご存じの方は「養育係」ということばが「律法」に対して使われていることを思い出されたと思う。「善」を目指しても「快」は得られないことを知ることにのみ、それを希求する価値があるというのがパウロの論である。

果たして「自分らしい自分」はどうしたら獲得できるのか。「自分探しの終わり」はどこにあるのかという問題につきあたる。

「あるべきクリスチャンの姿」などを目指すと、とんでもなく醜悪な偽善者を生む。そんなものが「自分らしい自分」ではないことは明らかだ。

クリスチャンは、「自分らしさ」など決して求めないことだ。何者にもならず、何事も成し遂げようとはしないほうがいい。ただ主に愛されている私を単純に受け入れれば、「私らしさ」が見えてくるはずだ。それは、教会の組織をまわすための役割とイコールであろうはずがない。そんなものに生き甲斐ややり甲斐を感じてはいけない。

ポイントがひとつあるとしたら、「人のまなざし」ではなく、「神のまなざし」を意識することだろう。

こう書くと、神は「私が~であれば、・・・なまなざしを向けられるのでは」と考えがちだが、それは違う。神はいつも変わらない。心の空洞はこの御方以外の何かによっては埋めようがない。

私たちはこの御方(われわれ=三位一体の神)に似るように(そのイメージで)造られたと書かれている。

いつも最高の愛で愛されている私の姿を信仰によって見ることだ。生き甲斐とは何かをすることではなく、キリストのうちにあることだと知ることだ。私がやることはすべてやり甲斐に溢れすばらしい価値がある。つまり、自分の何気ない行為も主にあっては誰かの役に立っているのだとわかるからだ。

4 件のコメント:

  1. まあ、ホントに関心しする。
    こんなに内容のある題目を出して来ることです。
    私が外科医なら「一度、胸の内を見てみたいので開かせてもらえませんか」と言うところです。

    後も話があったようですね。
    Saltさん、車酔いや船酔いしますか?
    なぜ酔うかは、
    自分がどういう状態かわからないからですよね。
    車酔いする子供も、免許を取って自分でハンドル握ると酔いません。逆に酔う人の行動を見ていると、飲んだり食べたり,読んだり、自分はこの様な状態では必ず酔うと信じていますし、必要な事を見てないか、必用でないものを見ている事がほとんどで、次の動きを予測しようとしません。
    私は波のある時は船酔いはします。
    予防策はいくつかありますが、酒を飲むと船酔いはしないのですが海に落ちる危険が有るし酒に酔うことは好きではありません。
    私がする事は動かない物を常に目の中に認めて行動する事です。ほとんどは灯台とか、山などです。
    訓練すると全く陸が見えない海洋に出ても自分の状態を良く知ると事が出来るようになります。
    車という箱の中では特に機密性が良く乗りごごちの良い車ほど酔いやすく、自転車やバイクでは後ろに乗っていても酔いにくいのは同じ理屈です。
    大切な事は自分がいかに振られていないかではなく、どの様に自分が振られているかを知ることでしょうか。
    コレには逆があります。
    3Dのゲームや運転シュミレーター、都会では電車の中で経験します。電車に乗り込み隣の電車を見ているとき、発車したと思ったのに、実は隣の電車が動いていただけで自分の乗っている電車は駅に止まったままだった事に気づいた時に軽い酔いが出るときもあります。

    本当の自分と実際の自分のズレ、良い子と不良と言われる子、どちらもズレが出てしまい修正出来ないと両方とも問題を引き起こします。

    まさに灯台や山の様に動く事のない絶対的な方を心に見据えて生きることが大切なことは言うまでもありません。

    自分でコメントしていながらどんだけ長いの打ってるの?と妻も私も呆れてきましたので失礼します。

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  2. 私は子供の頃 地域でも学校でも「よい子」であったと思う。
    良く挨拶をする子として見知らぬ人が学校へ報告し朝礼で褒められたり、人命救助と称し県や警察から表彰を受けたこともある。しかし、人を助けた経緯と行動の動機は 決して良いものではなかった。むしろある意味で苦い思い出となってしまった。
    「よい子」でいることの快さは学習することにより さらに大きくなり、嘘も方便・世渡り上手という考え方には大いに賛成していた時期もある。
    確かに「なかま」や「権威筋」からの承認を得るためなら自分の意に反することでさえやってのける。
    何と人の心の不真実なことか。
    幸いなことに、次第に年を重ねるにつれ何も出来なくなってきた。(その要素は存在するのだが)
    特に他人の為に何かを心から喜んで行うなんて出来ようはずもない。
    また、難しい言葉も知らないし 主のために働くことも出来ない。
    私は、主の傍にじっと座ってただ耳を傾けているマリアのようでありたいと思っている。それが一番自分らしく自然な気がする。
    主の言葉の一つ一つをかみしめ 抱きしめながらただアーメンと口にすること、これは私の喜びであり幸せな時だ。
    主の愛の中に浸り、静かに甘い交わりの中にいつも生きていたい。
    神の愛が私の内に溢れ、私が神の愛の中に浸っていれば、大切なことが見えてくるような気がする。

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  3. 電気やさん

    いつも示唆に富んだコメント、感謝です。

    大型フェリーか、近海の小島にわたる程度の船にしか乗ったことがないので、あんまりわかりませんが船酔い経験はなしです。確かに「波を見るな」と言われますね。嵐のガリラヤ湖をわたる小舟の中で熟睡されたイエスを思います。

    「動かないもの」「変わらないもの」をしっかり見つめていたいです。

    大酒飲みに見られるのですが、お酒は弱いです。飲むのは好きなので、酔わない秘訣があれば教えて欲しいところです。あ、これは関係なかったですね。

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  4. 匿名さん

    私もベタニヤのマリヤのようでありたいと思います。

    ところが、キリスト教界では「さあマリヤのように、壺を割って香油を捧げよう」となるのです。

    主が注いでくださったものが溢れるのであって、自分がコツコツためたものをお捧げするのではないのですよね。もしそうならカインの捧げものです。

    互いに主から注がれて溢れるものだけを分かち合えると素晴らしいですね。

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