2010/03/15

聖書から見た仕事

「あなたは、顔に汗して糧を得、ついにあなたは土に帰る」(創世記3:19)
「そして彼らに・・・すべてのものを支配させよう」(創世記1:26)

仕事には、「罪ゆえの苦役」という面と「神から委託されたものを管理する」という面がある。仕事で流す汗は、苦しみの証であるだけではない喜びの印でもある。

イエスは家業の大工の仕事をなさっただろうし、パウロも天幕を作って暮らしを立てていた。この職業選択は決して無意味ではない。

仕事の中で学ぶことは少なくない。

仕事を日々の糧を得るために時間を売ることだと考えてはいけない。

職業とは、社会との関わりの中で個人の能力を生かすことであり、その価値の代償として報酬を得る。これは聖書の中でも神の恵みとは明確に区別されている。

ローマの百人隊長は異邦人の軍隊という一見信仰とはかけ離れたような組織にあって、秩序や権威というものの本質を経験によって理解しイスラエルにさえ見られない信仰を学んでいたではないか。

なぜ、みことば三昧のイスラエルの教師たちにも見られない信仰が、ローマの兵士の中で育っていたのか?

百人隊長はみことばと生活が結びついていたのである。自分の仕事も信仰の中でとらえていたと言える。一方で現実の生活を軽く見て、ことばや観念の世界で神をとらえていた人たちの心は虚しく、その信仰は全く死んだものでしかなかったのだ。

というわけで、私はこうしたことをふまえて今の仕事にあたっている。

仕事は私にとっては訓練の意味合いが強いので、はっきり言うと、とても辛い。そして出来れば一日も早く辞めたい。でも続ける以上はプロフェッショナルでありたい。

5 件のコメント:

  1. ここでこんなことを言っていいのかわかりませんが、僕は大工をしていたころのイエスに非常に興味があります。
    自分の職業がらそうなのかもしれませんが。

    大工をしている友人が、面白い事を言ってくれました。
    「目標として同じものを見ているならば、今あるものを捨てて別の道を行く事に抵抗はない」
    僕はその言葉を、自分が求める真理や目的を自分の職業に感じているかどうか、と受けとめました。

    職業選択の自由はあれど。

    返信削除
  2. 「なぜあなたは、兄弟の目にある塵が見えながら、自分の目に梁があるのに気づかないのか」(マタイ7:3)

    このイエスのたとえは、大工仕事の経験から生まれたものだと思います。

    贖いの計画は、「蜘蛛の糸」のお釈迦さまのようなものではなく、まさに脚でデザインされ、自らを釘づけて完成されたものなのです。

    返信削除
  3. バプテスマのヨハネも取税人や、ローマ兵に今の仕事を変える必要はないみたいな言い方をしている。どんな仕事をしているかより、どの様に日々仕事に向き合うかが大切みたいですね。

    献身という言葉の中には様々な誘惑があります。
    福音書にはイエスの事で様々な方が驚くシーンが沢山ありますが、イエスが驚いたのは人の不信仰さと百人隊長の信仰、もしイエスに驚いてもらうなら後者でありたい電気屋でした。ありがとうございます。

    返信削除
  4. エシュコル2010年3月16日 7:49

    一日も早く辞めたい、と言われるとは予想だにしなかったですね。好きでなった職業であり、楽しんで仕事をしていると思ってましたが。
    でも仕事=仕える事であるが、私の場合仕事と言うよりも労働でしたから、ほとんど楽しみなんて無かったですよ。

    返信削除
  5. そうですか。私は早く「リタイヤ」して「ヤリタイ」ことをやりたいのです。主はまだ許してくれませんが。

    仕事は辛いですが、日々楽しんではいますよ。主が与えてくださるものには、常にその両面があるのです。辛いだじゃ身が持ちません。

    わがままな私が仕事を投げ出してしまわないように、主はちゃんと私のご機嫌をとってくださっています。

    ヨナが日よけとなったとうごまの木をいただいたように。

    返信削除