先週の日曜日は「ひねくれ者のための聖書講座」として、聖書を読む文脈について語った。
今日の午後からの分かち合いの中で、少しだけ続きの話をした。
聖書を文脈で読むためには、一定の長さと深さの人生経験が必要だ。人生の文脈がなければ、みことばを文脈に添って読むことは出来ないということ。
「誰でも自分の人生の中では自分が主人公」である。あれ、さだまさしがそんなこと歌ってたっけ。言ってみれば、それが「私が主であるところの」自分の人生の文脈。
どんなに気配りの出来る思いやり深い人でも「他人を主」にして生きている人などいない。人間自己チューが当たり前。ただしこれを露骨に出すと嫌われる。そういう人たちは性格が悪いというより処世術が下手なのである。
私たちは生きていく中でいろんな人と出逢いさまざまな出来事を経験し、その文脈を豊かにしていく。人生経験豊かな人のお話は実に面白いし、豊かな経験を重ねた人は魅力的でもある。そして、そういう人は自分の経験に基づいた人生観や人生論を持っているものだ。
しかし、聖書をいくら読んでも、心に響いたみことばを自分の人生の文脈に織り込むだけでは、それはただの読書であり、熱心に織り込んでも宗教の域を出ない。おそらく彼らが反応するのは、自分の人生観や人生論を後押しするようなみことばに限られている。遠藤周作や曾野綾子なんかは頻繁に聖書を引用するが、己の文脈で語るだけである。
私が聖書を正しい文脈によって読むべきだと繰り返すのは、みことばの断片ではなく、みことばの全体性こそが重要だからだ。
聖書の文脈と自分の文脈を擦り合わせ、聖書の文脈の中に自分自身を織り込んでいくこと、つまり、「自分の人生における主は自分ではなくイエスである」という読み方をしていくことが「信仰によってみことばを聴く」という態度なのである。
子どもの頃からみことばに親しみ、疑うことなく繰り返し、学校を卒業したら職業牧師になるような人がキリスト教界にはたくさんおられるが、聖書と擦り合わせる文脈が貧しいという問題がある。
天秤の分銅と釣り合わせせる具体物を見たことがないようでは、分銅のめもりが読めても実際の重さの実感が乏しい。
縦糸はたっぷりあるが横糸がちょろちょろでは、まともな織物が織れないのである。
別に、放蕩の経験が必要不可欠だと言っているわけではない。額に汗して働くという一定の経験や、神を知らない人の絶望の底を少しは知っておいても良いと言っているのだ。
かと言って、元ヤクザや元シャブチューが新しい組長や名医代わりのイエスを語るのは、やはり己の文脈を越えたとは言えないのである。
こういうことをふまえておかないと、「蔦の絡まるチャペル」ではなく、「舌の絡まるチャペル」になってしまう。お子様ランチみたいなメッセージは、舌の肥えた客にはジャンクフード以下なのだ。「青い山脈」的青春では、語り手の中には「青い文脈」しか残らない。
なぜ、モーセやヨセフはエジプトで苦労させられたのか。なぜ、ダニエルやネヘミヤはバビロンで仕えたのか。パウロは初めからイエスの弟子ではなかったのか。それは己の文脈を得るためである。
なぜ、イエスのまわりに人生の落伍者と見える与太者ばかりが集まったのか、しかし、与太者すべてが信じたわけではないという事実。ここに信仰がある。
「小犬にやるパンなどない」と言われた女は、「犬でもこぼれたパンくずを拾う」と応えてイエスにその信仰を認められた。自分自身の存在をイエスの文脈に見事にはめ込んだのだ。
一方で「永遠のいのちを得るにはどうしたらいいでしょう」と言ってやって来た金持ちの青年は、「持ち物を施せ」と言われて、悲しみながら去って行った。自分の文脈の延長にイエスの存在をはめ込もうとしてしくじったのだ。
この違いがおわかりだろうか。
正しい文脈で聖書を読むというのは、意外にというか相当難しい。
難しいだけでは結論にならないので、私が大事にしているポイントを3点挙げておく。
まずは霊的ではない読解力。聖書は非論理的な本ではない。ルカが福音者や使徒行伝を書くにあたって丹念に文献にあたったり、調査をしたように冷静で客観的な態度で聖書に向き合うことが大事だ。
もう一つはベタニヤのマリヤがイエスのひざもとに座って聴いたように、「人となられた神イエス」にひざまずいて聴くことである。
最後に母マリヤのように、「自分に語られたと感じるみことばを常に思いめぐらすこと」、そして「おことばどおりにこの身になるようにと願うこと」である。
大切なポイント3つ大変参考になります。
返信削除一度の満貫全席で急に成長できるはずもなし、
どちらかといえば、こちらが鈍いのでそんなに使いたくは無いのだが「カンフル!」って感じですかね。
あと、水でさえも高いところには溜まらないですからね
様々な神の蒔かれてある種を踏みつけるのではなくとどめておけばかならずいつか水にふれて芽をだします。
最近は無駄なことの中に大切なこともあると思っています。
>ベタニヤのマリヤがイエスのひざもとに座って聴いたように
返信削除今の時代では、御霊に聞く事と判断しています。
人生経験なんて、と少々拗ねてもいます(^^)
例えば、水野源三さんが主を慕ったように、
自分に絶望する事から
始まるのだろうと考えています。
ニコデモさんもザアカイさんも
もう、本当に、やりきれなく
うんざりしていたのだろうと思います。
豊かな青年には まだ自分に希望があったのでしょう。
過去がどうだったとか、聖書の原文はどうだとか、
だから何? となってしまう。
何だか訳が分からなくなってきました。
親戚が寄って下さるので、さぁ、祈ります。
だって、正直面倒なんだもの。
*過去がどうだったとか、聖書の原文はどうだとか、
返信削除だから何? となってしまう。*
好きです。そういういい方。
私はまばたきで詩を書いたり、口で絵を描いたりする世界はよくわかりませんが、たっぷり絶望は味わいました。
返信削除ああいう真面目でいっぱいいっぱいな感じは苦手です。私はもっとゆる~くて涼しげな感じがいい。
無駄が服を着て歩いているような私ですが、悲しみを癒し、退屈を面白くするのたいていは無駄なことです。無駄はゆとりなのです。金持ちでなければ無駄遣いは出来ませんから。
絶望を希望に変えてくれたのはキリストの復活です。希望があるからこそ、キリストにあるゆとりを楽しめるのだと思っています。
「青い文脈」というふざけたタイトルをつけましたが、真面目なショートメッセージの覚え書きです。
返信削除音声でも聴けますので、ライブメッセージへとんでください。
(忙しい中、Koji君がupしてくれました!)
ちなみに音声では「青い文脈」のフレーズはありません。さだまさしの歌を歌って紹介しようかと思いましたが、それもためました。やはり、とても真面目なメッセージなのです。
http://saltcanaan.exblog.jp/
過去はともかく、原文がどうとか、というのは実は大切な事だと思うのですが・・・・何故ならば意味合いが全然違ってきますから。また関連して、みことばを神のことばであると信じているか、ことばを含んでいるか、ことばになるか、ということも、信仰に結び付いている為に、非常に大切な事だと考えています。曖昧には決して出来ない重要な問題です。
返信削除水野源三さんの姿を拝見した事がないので
返信削除分からないですが、
星野さんをTVで見た限りでは
その笑顔は本物と思えましたね。
何かを確実に得た者の持つゆとりを見ました。
Saltさんに失礼な言い方になるかも、ですが、
ゆるく生きましょうと言葉を使う必要もない。
多分、そのように考えてもいないでしょうが
安心感が与えられます。
香りを出そうとしても出る訳がない、
自分で必死で出す香りなんて
臭いでしょう。
エシュコルさん
原文がどうのって、必要ないですよ。
相手は聖書です。必要なものなら、主の介入がある
書物です。原文を知っても得るのは知識であって
御言葉を味わうものとは程遠いです。
私たちは聖書を上から目線で 読んじゃいかんと
思います。私は今だかつて 原文の説明を聞いて
心がうちに燃えたことがないです。
信仰って聖書を理解することなんでしょうかね。
しつこくて すみません。(^^)
返信削除Saltさんは絵を描かれるんでしたね
TVで見た星野さんを思い出しました。
まだ、結婚前で絵の具の配合を
お母様がなさってて、本当に微妙な感覚が
必要でした。星野さんは、その色をもう少し、、
などと説明されるんですが、
その声の静かで落ち着いている様に
目が釘付けになりました。
敬語のように聞こえる丁寧さだったんですが
その時、ふっと気がついたんです。
「イエス様に頼んでるんだ」
涙が止まらなくなりましたね。この薄情な私がね。
我が家にやって来た親戚は
なぜか 信仰の話しをしたがって
声が枯れてしまいました。「はい、主よ」と
思いながらしゃべり、嬉しかったぁ!!!
オネシモさんへ
返信削除私に失礼なことなんてないですよ。私の方が水野さんや星野さんに対して誤解を招くような失礼な書き方をしてしまったかもしれません。
ちょっと面倒くさいけど、言いたかったことをもう少しだけ丁寧に書いてみます。
私たちが涙を流して感動するから価値があるわけじゃないし、価値があるものすべてに価値に応じた感動を伴うわけでもないと思います。
「これには価値があるから感動しなけりゃ」というのも妙な感じでしょ。
私はああいう「分かりやすい悲劇と克服のドラマ」を彼らの信仰の文脈とは違った文脈で編集するやり方やそれを有り難がる人たちがどうしても好きになれないだけなのです。
彼らの自身のことは別に好きでも嫌いでもありませんし、何とも思わないものに無理に感動しようとも思いません。
健常者の書いた詩や描いた絵と同じ基準で鑑賞して、その作品の背景なんて、その後に知りたい人だけが知ればいい。付加される情報が先に与えられて妙な色眼鏡で見られることって彼らは一番望んでいないのではないでしょうか。
私はアーチストのはしくれとしては、そういう価値観をもっています。
私は「ゆるーく涼しげに生きるように」を心がけてるんです。タイトなスケジュールな上に、「気を抜くと」逆に頑張りすぎるんですよ。別に何かを香らせたいからじゃなく・・・
しかし、これがけっこう汗臭くなる。迷惑に暑苦しい感じになるんですね。
親戚の皆さんに良い証が出来たみたいで良かったですね。
意外に身内には難しいでしょ。
エシュコルさんへ
返信削除おっしゃるとおり聖書原文の主意がどうでもいいなんてことはあってはならないことです。確かにパウロもガラテヤ書では、「子孫」か「子孫たち」か、単数・複数にまでこだわってますから。
でも、オネシモさんは別に「原語の意味なんてどうでもいい」と言われているわけではないと思いますよ。
正しい原語の意味を理解したところで、その理解も所詮「知識」にすぎないでしょという意味です。
位置エネルギーや加速度の計算が出来ても、それでスキーがうまく滑れるわけじゃないですよね。
スキーを楽しく滑ることの方が大事でしょってことです。勿論理屈がわかりゃ、さらに楽しいでしょう。
でも、日本人でヘブル語、ギリシャ語がネイティブ並みに出来る人なんてまずいないわけだし、みんなちょっとした辞書的知識の断片や聞きかじりでしょ。そんなものを振り回してちゃ、リフトから落っこちるよって話ですよ。多分。
ご承知のとおり、私も原語の意味については可能な限り調べて大事なポイントは伝えています。でも一番伝えたいのは、雪は綺麗だし、滑ると気持ちいいよねということ。
雪を見たことない熱帯の住民にスキーの楽しさを伝えるのは難しい。でも、そんなときに波乗りの感覚はスキーに似てるとか・・・そういう理屈がちょっとだけ役に立つだけです。
みんながそれぞれリアルにイエスに逢えばそれで終わりです。
お互いのバックボーンも発言の文脈になっているわけですね。
>意外に身内には難しいでしょ。
返信削除(^^)これが、私は主との出会いがなければ
母と暮らすなどは あり得ないので
一緒にいるだけで証となります。
まぁ 中には虐待を疑う親戚もいますが。
妙に信仰に燃えて地の果てまで宣べ伝えたい位の
勢いがある時期は、友達も失い、同僚には呆れられ
結局、何一つ実を結ばず、分かった事は
私は人をつまづかせる天才だわ でした(^^)
今はね、聞かれたら熱心に話します。
でも、そこまで、後は主にお渡しします。
いい具合に力が抜けて、成長させて下さるのは主。
私は関係ないや で 楽しみに眺めています。
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返信削除わかりますよ。とっても。
返信削除かく云うところの私も、キリストに大罪を弁護してもらう被告人のくせして、キリストの弁証を論じておった時代がありました。
「ひねくれ者のための聖書講座」なんてやっている私は、たぶん今だってろくなことはないと思いますが、あの頃よりはちょっとだけマシかな。ほんのわずかですが成長したと言わせてください。
そんなわけで「ゆる~く」なんですよ。
文章には一部不適切と思える表現や言葉があることがございますが、Salt氏の過去ログ、及びメッセージと合わせ前後の文脈を忍耐を持って深く御考慮されて御愛読なさいますよう電気屋としてお願い申しあげます。もし塩の固まりが入っておりましても電気屋には一切の責任が無いことも重ねてご報告させていただきます。
返信削除Thank you.
オネシモさん、Saltさん、了解しました。
返信削除電気屋さん、「はい」です。
返信削除主は時々人を用いてメッセージを下さいます。
塩の固まりが嫌なら、Saltさんのような方には
近づきません。
電気屋さんも、どうぞ私を諦めないで欲しいです!!
ちなみに、聖書の中の罪という言葉の
単数と複数を英語の分かる方に時々聞いています。
「分かりやすく訳してよねー」
などと、不満を飲み込みつつ。 (^^)
電気やさん、フォローありがとうございます。
返信削除けっこう面白いやりとりでしたね。
私としては、ちょっと辛めでもはっきりしない発言は性に嫌なんです。お役所や学校の我々ことばには日々辟易としてますから。塩けを失って捨てられるよりはマシかなと思っております。
でも、無理に塩けを出そうと気負っているわけでもなく、ちょうどいい塩加減を目指します。
天ぷらもダシより塩で食べたいSaltでした。