2010/03/04

小さき者あるいは一羽の雀

「燕雀安んぞ 鴻鵠の志を知らんや」(史記)

小さな鳥には大きな鳥の心はわからない。度量の小さな人物には大きな人物の志がわかるはずがないという意味。後に英雄となる陳勝がまだ日雇い百姓をしていたとき、仲間に将来の夢を語り嘲笑された。その態度を悲しんで語ったものだと言われている。

イエスは弟子たちに御自身が十字架にかかられることを折に触れて語り続けられたが、弟子たちには全くわからない。しかし、イエスは即座に理解されることを期待して語られたわけではなかった。

イエスが語られたのは、弟子たちが後に理解するためであった。つまり「その時は理解されないこと」「理解できないこと」が重要だったのだと言える。

後になって聖霊を与えられた弟子たちがすべてを理解したとき、その時はどんなにがんばっても誰も意味がわからなかったことを理解することが重要なのである。

神の家にも、大きな器もあれば小さな器もあるだろう。しかし、大事なのはその器が神から注がれる恵みで溢れていることだ。

大小というのは比較の概念であって、意味はあっても価値はない。大きな神の前には人はみな小さい。だから、イエスに出逢ったサウロはパウロ(小さき者)と名乗ったのだ。みこころはいつも人の計り知れぬところにある。ゆえに、私たちはただ「自分の願うところではなく、みこころがなるように」と祈るのである。

2 件のコメント:

  1. 大小というのは比較の概念であって、意味はあっても価値はない

    そうですよね。 ありがとうございます。
    大きい方がえらい、小さいことの方が劣っている
    役に立つ方がよい、やくにたたない方が良くない
    そう思いがちでした。
    今は使い方こそ違え、思いを馳せておりました。

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  2. 私たちはより「大きく」「高く」「速く」「遠くへ」を志向する傾向があります。男は特に。そういうものだし、初めからそうじゃないような奴なんて面白くない。でも、そうじゃないよと、主は言われている気がします。

    「小さく」「低く」「ゆっくり」「すぐとなり」を見直しなさいと・・・・

    大は小を兼ねない。かえって「小さいことに忠実な者は大きいことにも忠実」なのだと。

    だから、私は「小」学校へ勤めているのだと思います。私は身に沁みないとわからん人なので、主は私をそういう現場で鍛えておられるのです。

    私の専門は障害児教育です。

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