2010/09/22

コンプレックスについて その②

せっかくの休日だというのに、あれやこれやと役場の地域振興課に顔を出したり、地元の中学校や小学校に行ったり・・・・・と、けっこう大まじめに仕事をしてしまった。

まあ、いいや。仕事しながら、半分遊んでるから。

以下は昨日のつづき。

さて、肝心の聖書はどう言っているのか?

「人の心は何よりも陰険でそれは直らない。だれがそれを知ることが出来よう」(エレミヤ17:9)

人の心は良くはならない。しかも、その陰険さの質も程度も本人では捉えきれない。

「しかし、イエスはご自身を彼ら(エルサレムで御名を信じた人たち)にお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてのだれの証言も必要とされなかったからである」(ヨハネ2:23~25)

イエスは信じた者を信用しない。イエスの信頼を得ようとがんばるのは不信仰なのだ。イエスに知られていることを知ることが唯一の安息なのである。 信用に足りない私を愛してくださっている。だから、安心。

コンプレックスは、神から離れた後ろめたさと取り繕いの間におこる葛藤であり、神を抜きにしているから、それ以外の本来無関係な事実が原因であるかのような症状が発症するのだと私は考えている。

聖書は小説ではないので、世の小説家が本来最も紙面をさくであろう登場人物の内面の葛藤などは描かれない。また心理学の本でもないので、ある行為に関する分析も解説もない。
ただ人間の意志決定や行為に関する事実が淡々と描かれるばかりだ。

偉大な葛藤の記録を残してピストルで自分の頭を撃ったり、奥深い人間のドラマを描いて女と心中したりというのはよくある話だ。人は残された作品に共感するかも知れないが、神はただ自殺を評価する。要するに、神の前に取り繕う能力の優越など競っても仕方がないのだ。

全うなクリスチャンであっても、信仰があるにも関わらずコンプレックスを引きずって生きているかも知れない。それは、私たちが肉の弱さの中にある以上、やむえないことなので、そのこと自体を責めても悔いてもどうにもならない。

しかし、断言出来ることがふたつある。ひとつは、コンプレックスは信仰からは生まれはしないということ。そして信仰はあらゆるコンプレックスを乗り越えるということ。

とりあえずは、こんなところで・・・

8 件のコメント:

  1. 「イエスは信じた者を信用しない。」

    衝撃的な言葉でありますが、同感です。
    神は御使いでさえ信用なさってない。
    ましてや、全能の神なら人が本来そしてどこまで行っても、一切れのパンで裏切ることも私以上に知っている。(これはアダムが罪を犯すしか無かったと言っている訳ではない)
    神の信仰は神に対する信仰である。
    ただ神は私に対しても
    「私はあなたをシミもしわもないととのえられたものに、出来る」と、ご自分の信仰にあって信じておられる。
    そこには一欠片の私の努力も入り込む余地は無い。

    一見寂しい感じだが、だからこそ感謝なのだ。
    だからこそ、すでに、神の目には、私達は得ていると見えるのだから。

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  2. 信仰を決意した30年前の私は、鶏の声を聞く前のペテロのように「悔い改めたはずなのに」自分の信仰を信用していました。まるで、血判状に名を連ねた武士の勢いです。

    しかし、その後の約5年でボロボロになります。私も鶏の声を何度も聞くことになりました。

    ちょっと寂しくない言い方に換えれば、自分を見限ってキリストにのみ頼る私の中に働くキリストの信は信用されているはずです。

    信用に足りない「私」がいなければ、贖いも愛も無意味です。「私」はキリストとの結びつきにおいて価値あるものとされるのぞみがあります。

    「私」そのものが、キリストを離れて信用に足るわけでも、高価で尊いわけでもない。

    ここがポイントです。

    この認識の欠如が信仰を混乱させている原因だと考えています。

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  3. 『イエスは信じた者を信用しない。イエスの信頼を得ようとがんばるのは不信仰なのだ。イエスに知られていることを知ることが唯一の安息なのである。 信用に足りない私を愛してくださっている。だから、安心。』

    アーメンです。ここが味噌ですね。
    腐っていることも気がつけないことも気がつけない。
    イエスが、私のことを知ってくれている。それだけで十分です。

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  4. 「ちょっと「弛め」嫌いでもありませんよ。
    では、私なりの書き方ですが、

    生まれついた時から、土から造られた私達は泥にいる罪人でした。泥はある意味でコンプレックスでもあります。それを見ないようにすることも出来ますし、あの人より私の方が少し泥が少ないと優越感をもつ事もできますが、泥はいつも私についてまわります。
    もしここから進もうとするなら、その立ち位置でない
    新しい足場が必要です。
    泥の上をいくら歩いても泥の上です。

    神がモーセのように、私達を上げ岩の上に置いてくださったから、泥でない私の居場所が出来ました。
    しかしそこから自分で動くとまた泥にはまりこみます。下手に高い所から落ちるので、以前より深みにはまりこむ事になります。もがくほどに沈みます。自分には自分を救う力が無いことを認め、手を上に揚げ助けを求める事が、ただ一つの救われる方法です。

    ただ岩なるキリストに私がいる事を知る(知識で無く)事だけでは、私から神に感謝はあっても、神から見て私にはなんの価値もありません。
    かつて泥であった私にキリストがいる事を知る(体験と言いたいが、信仰)事で、キリストが成した過去の全ては私のものでもある事になり、キリストの力が今私のものになります。イエスという棟梁の言葉に従って建てた家であっても神も私に「よくやった」と言ってくださいます。

    クリスチャンはすぐ、キリストの様になりたがります。
    様々な行程があるので私達から見ると時間がかかるように感じますが、主は陶器師の様に私達を造り上げキリストの形に焼き上げてくださいます。
    下手に自分で動かず、エステで身を任すように(行ったことありませんが)整えてくださる過程を、ゆっくりと楽しむ事が良いと思います。

    Salt さん 交わりをありがとうございます。

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  5. カカシさん、どうもです。

    こうして見ると、なかなかいいHNですね。
    ちょっと間抜けで、かすかにおしゃれです。
    十字架にも似た姿と神の畑のwatchmanって感じもいい。

    「イエスに知られているだけで十分」
    この「満ち足りる心を伴う敬虔が大事」とたしかパウロも言ってましたね。

    これがないから、つまらんことで大騒ぎするわけです。

    私も時々、現実を見てしまうと、ひび割れた心で呻いてますが・・・いつもイエスが泥に沈みそうな私を岩の上へ引き上げてくださいます。

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  6. 電気屋さん、どうもです。

    読んでて、エステに行ってみたくなりました。行きますか?

    針治療なら受けたことがありますが、その時はうまく身を委ねることが出来ず、筋肉をこわばらせて何本もの針を折り、鍼灸師の友人を呆れさせてしまいました。

    床屋、歯医者など、完全な受け身で施術されるのは苦手な私ですが、イエスにだけは脱力して委ねることが出来ています。

    銀じ郎さんは整体だけかな?エステもしてる?

    「委ねる」系の体験は大事かも知れませんね。

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  7. ははは、エステは未体験です。整体は大好き^^
    「力を抜いて、大丈夫、抜いて」と声をかけられると、どうやったら力が抜けるのか、と戸惑います。そして、抜いているつもりなのに力が入っていることにも戸惑ってしまいますが…。

    「委ねる」ことは、対人面でもとても大切ですよね。
    やみくもに人を信じるのはおかしいですが、そういった意味ではなく「自分を委ねられる」人でなければ、健全な精神は保ちにくいようです。
    人に「委ねる」ことがわからず、さりとて自分で自分を受け入れられず…「これでいいのだ」は深いことばです。

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  8. バカボンパパよりずっと年上になってしまい、戸惑うばかりですが、どのあたりでいいとするかは、実際難しいところです。

    いつまでも自分と折り合いをつかられずにいると、ズルズルといってしまう。

    ビョーキの方々は、自分の良心に傷つくのです。ある角度からみれば、けっこうまじめでいい人だったりするのですが、別の角度から見れば、まず何をおいても自分のことを考えるという我が儘な透けて見えます。

    「人に信頼する」という疑似体験、いわゆる幼少期の愛着関係を持てなかった人は、「信仰へのジャンプ」がかなり難しいですね。

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