2010/05/17

「故意の誤訳」より「恋の媚薬」を!

日本語には独特の情緒や深い味わいがあるが、聖書の表現に関する限り、そんな日本語の良さはほとんど感じられない。それは原点の主意を守るためにことばとしてのリズムや流れを仕方なく犠牲にしたものだと思い込んでいたが、実はそうではなく、ただ訳が不味いだけだと言うことがわかってきた。

日本語をこよなく愛する私は、聖書の日本語は最低だと思っている。

でも、聖書は文学ではない。聖書は霊的な書であるから、私は日本語としての意味を越えて「霊」や「いのち」に直接触れている。

だから、おかしいものは何処かおかしいとわかる。そして、封じられているものは解けはしない。神が私に語るのであって、私が正しく読み解くのでない。

改訂と言っても、より原語の発音に近い片仮名表記であったり、人権に配慮したために取って付けたような不自然なことばへのすげ替えたりと、どうにもすっきりする話ではない。

聖書の翻訳に関して、「故意の誤訳」があると言うことは、随分以前から言われている。私も知らないわけではないが、「これが正しい翻訳だ」と言っても、そう主張する人たちに大して正しさやホンモノを感じないので、気になることばや表現はとにかく自分で調べて、他の聖句との整合性を確認しつつ納得できたことだけを発信してきた。

「日本語に立って思考する」から問題があるのであって、「正しい訳に立って思考する」というプロセスにも同様の落とし穴はあると考えている。「信仰に立って思考する」ことが大切だ。

「聖書読みの聖書知らず」ではいけない。

「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか」(ヨハネ3;10)

あらゆる言語は「ことばなる御方」の影であって、何がどう投影されているかがわからなければ、正しい訳も何もないような気がする。

ギリシャ語やヘブル語がすんなり理解できる人は少ない。それなら、せめて英語で読む必要があるだろうか。原語の意味を逐一調べなければ信仰は歪むだろうか。

神は常に無学で普通の人の味方である。キリストを直接知ることには、ことばの妨げはあるはずがない。

4 件のコメント:

  1. 「故意の誤訳」が在るかどうかはネズミの脳ミソでは解りませんが、都合良く解釈して説教しているのを耳にした事はありますね。(説教されている方は大真面目ですから始末に悪い)

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  2. 自分の主張にみことばをひっつけて語るのはいかがなものかと私も常々思っております。

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  3. メシアニックジュー(このいい方はいったい)の話でさえもほとんどどうでも良いものが多く、イスラエル人ほどイエスを見いださない民族はいないといわれる。
    知識や知恵はイエスを知ることには結びつかない。逆に妨げにすらなる。知っていると思う心こそ悟らない心はなく見えると思う目ほど見えない
    乾いた心、心の乞食にこそ、主は豊に与えらる。

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  4. ベニー・ヒンには「紅貧」という字を当てましたが、メシヤニックジューは「飯屋肉汁」ぐらいでいいんじゃないでしょうか。共に私の興味の対象外です。

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