2010/04/20

「おはボン」は原点

5周年目のアースデーでは、キンキ雑楽団が、壮馬が、Prinusが、それぞれに「おはよう・ボンジュール・ハロー」を演奏してくれた。今回Salt&Uribossaはビギンのリズムで演奏した。エンディングでは全員での合唱。6時間にわたる舞台にひとつの流れが出来て、演出としても成功だったと思う。

「おはボン」は、アースデーでは、いつも陰で動いてくれているY.B.M氏やつっちゃんたちと私を結ぶ曲でもあり、カフェテラスNZのイメージソングでもある。そして何よりSalt&Uribossa結成のきっかけとなったのもこの曲だ。

いろんな活動をしている市民団体のメンバーたちが、それぞれに出会いを紡いでくれたらという願いをこめて、第1回のアースデーでも歌っており、その時はクロマチック・ハーモニカのあらいなおこさんが吹いてくれたのを思い出す。

どうしても今回、「おはボン」を取り上げたかったもうひとつの理由は、最初にこの曲を録音してくれた森卓也さんの追悼のためである。彼もまたこの春に癌で急逝したのだ。

2日あけて今日は参観日。ギターを教科書に持ち替えて教壇に立つ。持っているのはギターだろうが、教科書だろうが、聖書だろうが、いつも私は変わらない。

世界に向かって語りかけることばは、復活の「おはよう」しかない。

17 件のコメント:

  1. 日曜日に公の場で顔を見せて
    歌っているというのも、?!ですが、(^^)

    私も日曜日は礼拝を休みまして、
    介護ヘルパーをしながら、大学生二人を
    シングルで育てている困窮状態の姉妹の
    手作りした雑貨の置いてくれそうな店を
    営業して歩きましたぁ。が、全く空振り。

    今まで30歳まで、仕事が長続きせず、
    転職だらけでしたが、営業だけは手を出せず、
    というのは、人と面と向うのが駄目で、
    食事も並んでなら大丈夫という、
    まぁデリケートよねと思っていますが。(^^)

    それが、数年前から目に病気があり、
    どんどん見えなくなっていて、
    手術は眼球を取り出してとかで、日数がかかるため
    介護をしている私には無理で、
    老化の一種で失明はしないと聞いて、
    放ったらかしですが、この見えないのが
    営業には幸いして、だって相手の顔がよく見えない。
    気にしないで話を進めます。
    売れませんが、結構、前向きに歩きます。
    礼拝を休む時は、一応秘密にしてますが。


    仕事も30歳の時、まるで空中から手が出てきて
    引っ張られるようにして、今の洋裁の仕事が与えられ
    今でも収入に繋がっています。
    針に糸を通す機械を買って、何とかですね。

    御心は何?と尋ねて待っても時間が経つばかり、
    違っていたら止めて下さいと祈りつつ、
    今は、営業らしきもので歩いています。
    今までなら、キリストのトラクトを持っていた筈。
    今? まず私から何かの香りが出てたら
    主が親しくさせて下さいますよね。

    今日は寒くて出かけられない、
    自分の事ばかりで、ゴメンなさい。

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  2. 私は日曜なんて何とも思っちゃいませんのであしからず。

    「日曜に礼拝を守る」なんて宗教的自己満足以外の何物でもないです。

    「周囲の人たちをつまづかせないために」などと思いながら、毎週日曜日を教会で過ごすのもちょっと馬鹿らしくなっています。

    勿論いやいや集まっているわけではありませんが、欠かさずきちんと集まることに満足しているわけでもありません。

    主は日曜に仕事せざるを得ない流通業の人を礼拝者から除かれはしません。

    「いつ」とか、「どこ」とか、そんなことは礼拝の本質とは関係のないことです。

    主は何のために安息日にしてはならないことをなさったんでしょうか?

    私たちをくだらない宗教心や愚かな思い込みから解放するためですよ。

    と言いつつも、ほとんど毎週日曜日は礼拝参加してますが、毎回自由な選択によって喜んで行っているのあって、そうでないといけないと思っているわけでもないし、行かないと礼拝出来ないと信じているわけもでありません。

    絵文字のノリで私の選択に「?」をつけられたまま放置するのもどうかなと思い、ちょっと書かせてもらいました。

    あなたの礼拝お休みとは、多少「質」が違うと思いますよ。

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  3. こんばんは。
    同じ日曜日なのですが、
    私たちは妻の母が入院をしたと聞きまして、
    お見舞いに行ってきました。
    夕方近くまで交わりました。
    交わりながら、アースディのことを思っていました。

    お義母さんは、それこそ何十年と病気か何かでないと
    礼拝を休まない人、奉仕の人。

    しかし、どうやら、数週間、数か月、もしかすると、、、
    礼拝に出席できないかもしれません。

    でも、でも、お義母さん、イエス様は、病室のベッドにも
    ともにおられて、お義母さんを抱いてくださっている、
    と信じます。

    お義母さんが、今まで、ささげられた以上の礼拝を、
    お義母さんが、今まで、ささげられた以上の主の奉仕を、
    主は、お義母さんのうちにあって、なしてくださる方、
    と信じます。

    お義母さんは本も読めない病状だという。

    あぁ、emiさんを思い出します。
    emiさんが、病床で、真に、イエス様にあって、
    自由を得られた証を。
    その礼拝を、その主の奉仕を、その主のみわざを。

    >ギターを教科書に持ち替えて教壇に立つ。持っているのはギターだろうが、教科書だろうが、聖書だろうが、いつも私は変わらない。

    私もそうありたいと願います。

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  4. お義母さま、大丈夫でしょうか?

    ヤコブが死の床で杖に寄りかかって礼拝したように、信仰は肉の自由が奪われても、さらに自由になるものなのでしょう。

    アースデーでは、emiさんを偲んで歌いました。

    「さよならなんかしたくない」という彼女のために書いた曲です。

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  5. 「ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。」(ローマ14章5節)

    これでいきましょうや。

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  6. すみません。最後の「や」を「よ」に訂正いたします。お詫びを込めて。

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  7. ゆばるさん、コメントありがとうございます。

    オネシモさんが、批判的な気持ちで書きこまれたのではないことは十分承知しています。(これまでの書き込みの流れを見ればそれは明らかです)

    さらに、私も不愉快になって反論したわけでもありません。

    ですから、オネシモさんへの反論ではなく、ささやかな私の信仰の表明です。

    このブログはどうでもいいようなつまらないものですが、日々の私の証だからです。

    私は礼拝を休んだのではなく、アースデーで礼拝していたのです。

    コメントに対して軽く同意してもよかったのですが、「礼拝」とは何かという本質的な問いを考えると、日曜日を特に重んじなくていいということさえ、拡大されたり、教会のスケジュールにのっとらなければ礼拝ではないというニュアンスを、そのまま流してしまうのは、管理責任上、違うと思ったのです。

    ロマ書14章の引用のみことばのポイントは確信を持つことです。「何でもいいや」という確信のない人たちの言い訳に使うみことばではないと思います。

    キリスト教界には、「あなたの確信には深く突っ込まないので、私の曖昧さも見逃してください」という甘ったれた空気を愛だと思い込む傾向があります。

    私はそういうのが嫌なのです。

    安息日に「あえて」律法学者たちをいらだたせて、ことの本質を明らかにされたイエスの心はどこにあるのでしょうか。

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  8. こんばんは。
    今日は、いつもの人達とのお交わり。
    お友達を一人連れて行って、少しのお話しでした。
    テープやトラクトなど渡さないで欲しいと
    お願いしていましたが、さすが、我が集会、
    姉妹の一人がテープをお渡ししていましたぁ。
    結果は主のものですから、
    私の思いと違う形でも構いません。

    日曜日に営業に行ったお店は日曜日だけの
    開店で、大変にセンスが良くて、どうしても
    置いて欲しかったので行きました。
    で、日曜日開店でクリスチャンじゃないなと
    思ったし、もしクリスチャンなら、
    やはり、「?」となります。まぁ自分も日曜日に
    動いているのですが。

    日曜日が義務の礼拝もおかしいし、
    日曜日は決められた日じゃないからと、
    礼拝をしなくたってと 変な言い方ですが、
    頑張るのも、どうもしっくりしません。

    礼拝はいつでもどこでも ちっとも構いません。
    当たり前です。主がご覧になるのは心です。
    でも、日曜日に多くの知らない人達が
    どこかで聖歌を歌い、祈っているなら、
    そこの一人となって歌ったり祈ったりは
    とても楽しいものです。だって病気でもないし
    仕事もないし、介護だって人に頼めるし、

    日本がある日、休みは水曜日にしようとなったら
    礼拝も水曜日でいいです。
    要するに、集まり易い日に、主を賛美をし祈り、
    それが見ず知らずの人達もやっているのだなぁ
    というのが、心地良いと思えてしまうのです。

    宗教なのかもしれない、習慣だけかもしれない
    名ばかりクリスチャンかもしれない
    でも、今私の賛美と同じのを今誰かが歌ってるって
    嬉しくなるのです。

    今回は行きませんでしたが、
    賛美のたびに、Saltさんも歌ってる
    ゆばるさんも歌ってるって、思える。
    嬉しいのですよ。

    変ですかね。
     

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  9. Saltさんどうもアースディの礼拝、良かったでしょ。
    オネシモさんおもしろいですね、こんな言い方ですみません。でもオネシモさん
    のコメントのお陰である意味、アレアレ、ハラハラ、イライラ、あらまあ、フン
    フンと楽しいです。
    すみません。私も少し参加させてください。
    習慣、慣習、ならわしとは面白いものです。
    イエスも従ったりそうでは無かったりします。まあ従ったのは小さいときがおおいですが。
    まるでそれをしないと間違っているようにも見えます。

    また、完全で無い良心では罪になるケースもあるかと思います。
    時には良心がせめても主の前に正しい事をすべき時もあります。
    知らない時はいいけど、知ってしまうとまずいこともあります。

    ”わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。 ”
    イエスがこういった時点では 仕方がないかもしれませんが、
    ”しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です ”
    と、言われてからは、真の礼拝者とそうではない礼拝者があります。。
    霊と誠によるなら、いつでも何処でも誰とでも何をしても真の礼拝をイエスは可能にして下さいました。

    またパウロは
    ”私はあなたがたをほめません。あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっているからです。”
    と、言ってます。決められた日に、イエスを知るものが多数集まっても益でなく害になることもあると。

    真の礼拝者に最もふさわしいのはイエスキリスト、彼は礼拝の対象でもありながら父を褒め称えています。
    イエスを心(魂)に迎えてから、霊とまことである礼拝が可能となりました。
    ただ、彼はモーセのように(以上に)誰よりも謙遜ですから、私が出れば彼は私のあるじなのにひこっみます。
    イエスと共にとは、イエスを私と一緒に引きずりまわす事ではなく、イエスにハンドルを任せて横でドライブを楽しむ事にちょっと似ている。
    好きな人といると「ねえ、どこ行きたい?」
    「どこでもいい」
    「今度いつ、ならいい?」
    「いつだっていい」ですよね。
    だから毎日が祝いの日です。
    私は7年程まともに日曜礼拝と呼ばれている集まりに参加していません。
    私を悪く言う方はノンクリスチャンでなく、決まってクリスチャンと呼ばれる方です。
    だから交わりはやめる気はさらさらありませんでしたが、なぜか付き合ってくださる方は希でした。
    キリストに聞き、キリストと良く話す、そんなキリスト者の方が好きです。
    そんな方とは、一緒にいてほぼ益にしかなりません。
    イエスの声をいつも耳元で聞きたいです。

    私たちは聞く気になればいつでも聞けるそんなすごい特権を
    神はこんな土塊に与えてくださったのですから、
    それは御使い達もうらやむような素晴らしいことですから

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  10. 事情をよく理解していない私が余計な横槍を入れるべきではありませんでした。お詫び申し上げます。皆さんの礼拝に対する真摯さが身に沁みました。

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  11. ゆばるさん、
    真の礼拝というものを、私はゆばるさんの
    メッセージから教えて頂いたと、
    これは揺るがない確信になるでしょうと
    思っています。
    それは、祈りのメッセージでした。
    祈りはイエス様の祈りに加わること。
    礼拝もそうですよね、イエス様の礼拝に
    加えて頂く事!!。私の礼拝ではなく
    主の礼拝が霊と誠の礼拝です。確信です。

    電気屋さん、
    >私はあなたがたをほめません。あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっているからです。”
    と、言ってます。決められた日に、イエスを知るものが多数集まっても益でなく害になることもあると。

    うわっ 突込み所、と小さくガッツポーズでしたぁ。
    ここだけ取り上げてゴメンなさい。(^^)
    これは集っている人達への主からのお言葉であってぇ
    まずは、集ってみよ だと思うんですよね。
    害になるから集うな ではないと思うのです。
    ねぇ 集って家に帰って、まずする事は
    悔い改めです。語った言葉、現した表情、
    さえぎった言葉、
    これは自分を突きつけられて嫌なんだけど
    感謝だなぁ って思ってしまうんです。

    これから、母の介護認定に役所の方が見えます。
    では、では。

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  12. あの~、「霊と誠」ではなく「霊と真理」だと思うのですが?

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  13. 人生の大半はどっちでもいいことばかりですが、礼拝に関することはそうではありません。

    霊とまことによる礼拝者でありたいと願います。

    好き勝手な礼拝ではいけません。それはこの世に属するものであり、キリストが忌み嫌われるものだからです。

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  14. Saltさん、その通りと思います。
    霊とまことによる礼拝は簡単ではないようです。
    でも、内なる主は霊とまこと以外の
    礼拝はお出来になりませんよね。(^^)

    私はすべてにおいて自由ですが、
    キリストの奴隷。主のオネシモです。
    何があったから感謝、何かを感じたから感謝、
    勿論、それは喜びですが、
    一番の喜びは 私は主の奴隷です。

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  15. アーメンです。

    そう霊とまことによる礼拝は簡単ではないです。

    それがお出来になるのはイエスのみ。

    イエスの信によりかかるしかないわけですね。

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  16. 霊とまことによる礼拝って、何でしょう? 霊と真理による礼拝って何でしょう? 同じ??? まこと=真理?
    この辺がみことばの難しい所で・・・。

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  17. 聖霊とイエス・キリストのまこと(真理)です。

    要するに礼拝する側の霊性や忠実さによるのではないということだと思います。

    ヨハネ伝は、3章にニコデモが出て来て、4章にサマリヤの女が出て来ます。イエスはニコデモには新生について、サマリヤの女には礼拝について語られました。

    ここにポイントがあります。

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