2010/10/26

Saltの「アホ」リズムな箴言⑦


(31)人は自分の信じたい情報を選びとるしかない。それは多くの場合、自分にとって都合の良い情報であることが多い。同じ嘘なら少しはマシな嘘をつきたいし、同じ見るならちょっとでもいい夢を見たい。誰だってそう願う。すべての事柄について、100%の真実をつきつけられたら、私たちはそれに耐えられないに違いない。いずれにせよ、人は何を信じたかによって自分に値をつける。

(32)自殺は意気地なしの行為である。のみならず卑怯だ。何が意気地なしでどこが卑怯かと言うと、自殺は、己の自意識過剰によって現実が裏付けられなくなった時に、その高ぶった自意識を守るために現実を消去する取引だからだ。親や子どもや友人といったあらゆる関係性を一方的に暴力的に断ちきる行為だからだ。

(33)正義を追求することが必ず大いに報われ、人からの間違いのない評価や豊かな暮らしにつながるのであれば、正義を追求するという目的は、賞賛や冨を得るための手段になってしまう危険性があり、正義はその時点で本質を手放してしまう。

(34)言霊なんてない。人のことばはいつも後付けのもの。通り過ぎる本質を追いかけても永遠に追いつかぬ鬼。

(35)文章にとって最も大切なことは品格である。次に大事なのは光を感じさせる影を描くことだ。

12 件のコメント:

  1. 「自殺」という言葉には、どうしても反応してしまいます。その最悪の「取引」してしまう段階を100レベルとすると、人が生まれてから、その取引をするまでに、どんな選択をくりかえしてゆくのだろうか?と思うのです。

    10、20、30、40、、、、90、、、99

    数限りない選択の中で、最終的には、その最悪の取引をしてしまったのでしょうか?

    彼は突然に最悪の取引をしてしまったのではなく、それに至る、無数の悪の取引の積み重ねが、結果として、選択の余地のない、最悪の取引へとつながってしまったのではないでしょうか。

    まだ、後戻りができるうちに、違う、選択ができら、、、。

    そのために、関係性の中にいる隣人として、一体、何ができるのでしょうか?

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  2. 自殺者の家族は悩みます。自分にその責任があるかもしれないと思うからです。何パーセントかの人は、その自責の念に耐えきれず、自らもその最悪の選択をしてまうようなのです。

    昔、5年間精神科病院で勤めていました。何人もの人の自殺を直接阻止できました。しかし、年間、数人は自殺をしてしまっていました。

    一人の関わった人がいました。その人は職場復帰を目指していました。未熟な新米職員の私が、病院から通える職場を開拓し、将来の職場復帰にむけての職場実習をスタートしました。

    その人は最初大変、喜んでくれました。しかし、数週間後その人は病院を抜け出して、逃げてしまいました。

    僕は、祈りながら探しました。図書館に行けばいるかもしれないと思い、行けば、見つけることができました。僕は神に感謝しました。その人は病院に戻りたくないと言いました。僕はどういっていいかわからず、祈りながらペテロとユダの話をしました。その人は病院にもどってくれました。

    その人は再び、人が変わったかのように実習地へもどってくれました。一生懸命頑張りました。でもやはり数週間後、顔色を変えて、「こんなひも付きのところにおれるかい。おれはでてゆく。」と病院を出て行ってしまいました。

    数か月後、偶然、その人の名前の入ったカルテを見ました。その人は川原で死んでいる姿で発見された、と書かれていました。

    関係性の中で、何もできなかったのだろうか?「自殺」という言葉を見ると思いだします。僕が未熟だったことでしょう。当時の病院も足らない点があったことでしょう。

    その人が精神を病んでしまうまでに、無数の悪を選んでしまう選択があったのでしょう。そのような選択を育む、関係性があったことでしょう。

    今、私たちは、そのような最悪の選択になってしまう前に、後戻りができるうちに、主の御心に従う、という選択ができますように、お互いに、向きあい、御霊に満たされ、互いに仕えあい、語りあうことができますようにと願うのです。

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  3. 銃の引き金を引く瞬間でさえ、後戻りしようとする強烈な力とせめぎ合っているはずです。

    それが生き物としてプログラムされている本能でもあります。

    私も友人や教え子を自殺で失っています。それは耐えられない辛さですよね。まして家族や恋人であればどうでしょう。

    御自身を裏切ったユダの末路を知っていたイエスは「生まれなかった方が良かったのだ」と言われています。私はこのことばに大きな衝撃を受けました。

    創造者であり、救い主であり、主権者である方、いのちのことばである方が「生まれてこなかった方が良かった」は無いだろうと強い反発を感じました。

    しかし、後になって自殺はそれほどの反逆行為であり、人にはそこまでの自由が本当に与えられているのだと知るに至りました。

    父も子も聖霊も、人の自殺を止めない、止めることが出来ないのです。なぜなら、神は愛であり、人は強いられてではなく、自分の意思で選んで信じることが許されているからです。

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  4. しかし、父も子も聖霊も、人の自殺を止めたいと思っておられるのではないでしょうか?


    確かにご自身の全能の力でそれをするのではなく、
    人の意思に、自由をお与えのことでしょう。

    そして、ユダに「生まれなかったほうがよい」と語られた主の御心は、どれほどの痛みでしょうか?

    「生まれなかったほうがよい」ということばは、最後にユダに、悔い改めのチャンスを促されているのではないかと、僕は感じます。

    家族よりも、恋人よりも、人がはかりしれない、もっとも痛みを感じられる方、ご自身が、最後の最後まで、あきらめず、悔い改めのチャンスを、ユダにメッセージしているのではないでしょうか?

    お前は、まだ、後戻りできるぞ、と、ここで、違う選択をしなければ、生まれないほうがよいのだ、と。マタイ26:23~25は主が必死でユダに最後のメッセージを送っているように思えます。

    また、戻れる、と。

    彼が、銀貨を神殿に投げ捨てた時、選択の余地は、どれくらいだったでしょうか。まったくないとは言えませんが、イエス様とむきあっていた時と比べると、ほとんどないに近いのではないでしょうか?

    それは、同時に私たちへのメッセージではないでしょうか?

    最後まで、あきらめるな、と。そして、今も主は、私たちのうちにあって、語ろうとしておられるのではないでしょうか。最後の機会に至るまでに、まだまだ、時間があるならば、主は働こうとしているのではないでしょうか。

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  5. すみません、打ち間違えました。

    誤 また、戻れる、と。

    正 まだ、戻れる、今なら

    戻らないなら
    そうでなければ、生まれなかったほうがよかったんだ、と。

    主の痛みはどれほどでしょうか?

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  6. その通りだと思います。

    確かに最期の瞬間までチャンスはあります。

    裏切る私を知り抜いて「友よ何のために来たのか」と問われる方の愛を受け入れるかどうかですね。

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  7. そうであるならば、32の箴言は「誰に対して」書かれたのかな?と思ったのです。32の箴言を読んで、もしも、その最悪の選択を思いとどまってくれる人がいれば、主に感謝です。でも、それを逆に受けてとめて、「こんなに苦しいのに、まだオレを責めるのか?」受け取ってしまう人もいるかもしれない、と思うのです。イエスとユダの会話は、リアルな会話でした。イエスのまなざしを、表情を、肉声を、ユダは見たのです。

    ここが、ブログといったネットコミュニケーションと、リアルなコミュニケーションの違いではないかと思うのです。

    そこにネットというコミュニケーションの限界を感じます。

    もしも、ネットで何かを書いただけで、誰かに、何かを伝えることができた、と思うならば、僕は、それが怖いのです。

    人生の選択は、すべてが平面的ではなく、ある時期の、ある選択が、その後の人生の決定的な影響をもたらしてしまうという岐路のような選択があると思います。

    その選択を間違えてしまうと、後戻りできないような重要な選択が。

    その選択にいたるまでに、小さな選択の積み重ねがあるのではないか、と、思うのです。

    ひとつひとつの選択を、主にもとめ、主が私たちのうちに働いてくださるならば、実際に、自殺者を減らすことも可能ではないか、思うのです。

    最悪の選択を非難するよりも、その前段階の小さな選択を、間違わないように、お互いに、訓戒しあい、へりくだって、教えを受けあることができるならば、幸いだな、と思うのです。

    私たちは、罪をもち、不完全な、人間です。欠けのあるものです。主は完全ですが、でもその欠けは、お互いの必要をお互いに満たしあうために、主がそのようにしてくださっているのではないかな、と。

    だから、他の兄弟姉妹に恐れることなく、語り、自分の間違いに気づけば、率直に受け入れ、修正し、他の人が主から受ける恵みのおこぼれを受けて潤う。そんな関係性を求めていかなければならなかったのかな?と思わされています。

    僕は今ままで、人と物事の是非を論じたり、対立することを避けていました。最近そのことに気づかされたのです。しかし、それではいけないのではないか?と今回強く思わされました。

    Saltさんを尊敬しているので、胸をお借りするつもりで、表現させていただきました。

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  8. 熱いコメントありがとうございます。

    自殺は十字架と重なる部分があるので、どこか英雄視されるところがあります。でも、決してそうではないと強く言いたいのです。それは意気地なしで卑怯者の選択だと。

    どんなに苦しくても、その苦しみは他人のものでも、また他人のせいでもない。誰かに背中を押されて死に至るはずのなかったものが死に至るいうことはないと私は思います。

    自殺はあくまでも本人の自由意思です。死んでから「そいつは意気地なしで卑怯者だった」とはなかなか言えません。

    だから、生きている間に、そんな無様で愚かで我が儘な選択はやめろと声を大にして言いたいのです。

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  9. 朝に寝不足の頭で勢いで書きまして、今日は一日「ああ、変なことを書いてしまったのではないか。」と自己嫌悪におちながら、何とか事故なく仕事をこなし、家に帰ってきて、受けとめていただき感謝いたします。実は2年前に知人にそのようなことがありまして、いまだにショックが残っているようです。

    >どこか英雄視されるところがあります。

    なるほどそういう「誰かに」という背景があったのですね。文学者とか芸術家の方で時々話題にのぼりますね。教えてくださりありがとうございました。

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  10. Saltさんも遅くまでお付き合いくださりありがとうございました。お仕事が激務でいらしゃるのにすみませんでした。

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  11. いいえ、大丈夫です。こちらこそありがとうございました。

    私の戯言を真摯に受け止め、誠実かつ丁寧にコメントしてくださるmeekさんの人柄に触れることが出来、とてもいい時間でした。

    私も高2のときに、あまりにもショッキングな友人の自殺を経験しています。追悼の歌を書き、詩集を作り、ずっと引きずっていました。進路のことより、私は何で死なずに生きているのかとか、死んだ人間はいったいどうなるんだとか、そんなことばかり考えていました。

    10数年前には6年で担任した教え子に20歳を過ぎてから死なれています。しかも、私の誕生日が彼の葬式でした。毎年秋になるといやでも思い出します。

    さらに、教え子の兄が特急に飛び込んでからだのパーツが集まらないくらいバラバラになりました。これもとんでもない事件でした。

    残された家族や周囲の人間の悲しみや辛さについて、十分に考えた上でのやむにやまれぬ選択をした・・・・などと、私は彼らに言わせない。

    それだけです。

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  12. ご返答ありがとうございました。
    感謝いたします。m(_ _)m

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