子どもはいろんなものを見ている。その眼に写っているのは、いったいどんな世界だろう?
大人は子どもたちに、「ほら、これをみてごらん」と言えるものをどれだけ作って来ただろう?
子どもだった頃の私は、ずいぶん早くから、「あんな大人にはなりたくない」と思う連中が、このうんざりするような世界を作ったのだと気づいていた。
そんな私もやがて大人の仲間入りをし、自らもこの腐り果てた世界の共犯者であることを自覚するに至った。そして、気がつけば眼の前に立ちはだかった壁のレンガひとつとして子どもと関わる仕事についている。
しかし、私はせめて自らのからだを抜きはずして、その隙間から「この壁を突き抜けた世界があること」を見せてやりたい。背丈の足りない子どもの足台になってやろう。
この世界は既に終わっているが、それでおしまいではない。
どんな時も希望を失ってはいけないと・・・・・
「なんじ 殺す無かれ」
返信削除とありますが、自分を愛する故に自分を殺しす。
いじめの場合はそれに憎しみがプラスされて自殺になる時もある。
精神的なケースは事故に近いと私は考えますが、深く考察してみないとわからないことも多いです。
自殺を考えた事の無い人はほとんどいないと思いますが、いつか死なないといけないなら死んだ後の世界は必ず見れるはずなので、今、生きている世界を出来るだけ見てやろうと考えました。
4月6日のブログでも書いていることですが、こんな性格なので結構なトラブルにもはまりましたが、相手を殺すか自分を殺すかしかないいじめは存在しません。どんな時でも希望はあります。
それで家出をするわけですがそれも私にとって良い経験でした。
もし逃げ出すことも出来ない状況で死を迎えるなら悲しいことですが、自殺ではなく人々がそうした事です。
キリスト者もキリストにあって生きていくときに追い込まれてしまう状況が有るかと思います。
その時自分で命を絶つのではなく、群衆が十字架につけてくれます。
首を吊ることは自分で出来るのですが、生け贄として自らを捧げるときもイサクの時のように父が必要ですし、
十字架は自分で登るものでもなく自分で自分に釘を打つことも出来ません。それは人々がつけてくれるものなのです。
誰が何のためにいつ何処で何を捨てるかは全てのキリストにあるものの生き方だとおもいます。
>その隙間から、、、
返信削除Saltさんの絵の個展44eyesを思い出します。
22個のひとつひとつが手作りの自然木のような額に
一人一人の生徒さんの、笑顔が、、、
生徒さんの瞳の中に、
Saltの姿が写っているような気がしました。
そして、Saltさんの瞳の中に、主が、
写っているように感じました。
そして、主の瞳に映るわたしたちの姿を。
がんばれ、子どもたち。
返信削除きみたちの瞳に写るものは、一生を支える宝になるよ。
惹かれるな~、こんなワンショット。
電気屋さん、含蓄のあるコメントありがとうございます。
返信削除十字架に架けられる経験は実に厳しいものですが、それは通らされる道ではありますね。
meekさん、ありがとうございます。
返信削除あの夏、懐かしい想い出です。
今年はあたらな気持ちで写真を撮ってます。
いつかこれもまとめてみたいです。
銀じ郎さん、惹かれますか?
返信削除被写体の子どもに見せたら、「何撮ってのよ。変態やん」とのコメントをいただきました。
幕末の多くの者たちが海外に行ってみたかった様に
返信削除今の見える世界が全てではなくその向こうの世界があるのだと聞いたものは、やはり見たい行きたいと思うもの。
人が築き上げたバベルを見上げるのではなくそのはるか彼方の天におられる方を見上げること。
そのために大人という人垣で見えなくなっている小さな子供の目の先に風穴を開けてやること、それでも見るものは見るし見ないものは見ない。
それもまた自由のなせる技
自分には自殺すらする価値が無いと知ればまたその先の選択も違う。
自分に力も知恵も立場も無いからこそ出来ることがある。
いくら自分を鍛えてもアメリカまで泳いで渡ることに成功した者はいないように天に行くなら自分の力に見切りをつけてイエスという船に乗せてもらう事。
そんな私は車窓(船のデッキ?)からの景色を眺めて楽しんでいる一人です。
ずいぶん肩の力が抜けてきたなー
抜けすぎて腑抜けになってきたかも知れないが、
このポンコツの中に宝石の様なエンジンが載っていることが私の誇りでしょうか。
幕末の英傑たちの中でも、特にまだ見ぬものをしっかり見据えて居た者の言動は、藩レベルのことを考えている連中とはまったく違いますよね。
返信削除自分の軒先(クリスチャンであれば自分の信仰や自分の教会レベルのこと)のことで頭がいっぱいの人は、私の発信にはただムカツクだけだと思います。