2010/10/25

~するのは誰の為?



昔は「世の為、人の為」という建前がそれなりに立派に見えた。今はそんな建前よりも、生々しい本音を語ることが当たり前で、それが恥ではなくなってきた 。時代の流れとは言え、そうした風潮はあまり好ましくない。

そして、本当に「世の為、人の為」は建前で「自分の為」は本音なんだろうかと問いたくなるのだ。

そもそも、神は人を複雑な関係性の中で共存させながら祝福することを目的としてこの世界を創造されたのであって、ある個人の為の単独の幸せなど存在しないと言ってもいい。

子どもに勉強することを勧めるときも、「勉強するのは自分のため」と言うのが当たり前になった。「~するのは、自分のため」を全面に押し出すと、「俺のことなんだから、ほっといてくれ」という理屈を肯定するしかない。

緒方洪庵の敵塾は、「世の為、人の為」の学問を教えた。私はその精神が好きだ。知恵は他人の幸せのために使うべきだ。

「私の利益」を勘定に入れずに何か打ち込んでいるときが、結果として私が一番得をしていたのだと後から気づかされることが多い。恵まれたのは誰かとともに分かち合うためであって、そのことによって自身もさらに潤うのである。

桐生市の小学生6年生の女の子がいじめを理由に自殺した。こういうニュースを聞かされる度に本当にやりきれない気持になる。ご遺族や関係者の慰めを願いつつ、あえて言うが、「人は自分の幸せのために生きているんだ」と教えられた子どもは簡単に人を死に追いやり、また自らも命を絶つ。実は自分の為だけに生きているほどしんどいことはないのだ。

誰かを傷つけることは自分を傷つけることなんだ。誰かを誹謗中傷することは自分を蔑むことなんだという関係性の理を知っていれば、世の中はもう少しだけやさしくなる。

自分ひとりで生きている人なんかいない。みんな誰かを支え、また支えられている。力のある人が無い人を支えているだけじゃない。その逆だっていっぱいある。

ただ生きているだけで、誰かの役に立ち得るのだと知っていれば、人は不幸にも耐えられる。試練や困難を乗り越えることができる。家族や恋人や友人の為に、同じ境遇にある人の為にもう少しだけ、明日一日をがんばれる。

幸せは独り占め出来ない。「人はひとりでいるのはよくない」これが神のプラン。神御自身のすべてを分かち合うために人は作られたのだから、神と離れた私の祝福も、隣人とは無関係の喜びも存在しないのだ。

写真は秋の遠足で撮影した浄化センターのエアレーションタンク。この中では日夜、微生物が汚水を分解しているのだが、彼らは世の為人の為にエコしているわけでなく、自分の幸せを追求しているわけでもない。ただ自分のいのちのプログラムを生きているだけである。一方、人間の集団の自浄能力は今日きわめて低い。ヒトとしてのいのちのプログラムを顧みず、人と人との関係性を無視することによって、社会に下水を垂れ流している状態である。

10 件のコメント:

  1. 小4の息子(LD)の参考にさせて頂きます。

    グッドタイミングでした。  感謝します。

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  2. よかったです。

    4年生は大事な節目になることが多いです。

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  3. 大変教えられました。ちょうど自分のブログに「自分のために」という言葉を書いたばかりでしたので、動機を探られました。まだ十分に理解できていない部分もありますが、とりあえず、自分のブログから「自分のために」という語句を削除してみました。これからも祈り、考えつつ、求めてゆきたいと思います。

    「誰かのために」なら、受け止める人が存在しますよね。
    そこに「ありがとう」が生まれますよね。

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  4. >、「人は自分の幸せのために生きているんだ」と教えられた子どもは簡単に人を死に追いやり、また自らも命を絶つ。実は自分の為だけに生きているほどしんどいことはないのだ。

    誰かを傷つけることは自分を傷つけることなんだ。誰かを誹謗中傷することは自分を蔑むことなんだという関係性の理を知っていれば、世の中はもう少しだけやさしくなる。

    ここは強烈に心に入りました。
    ありがとうございます。

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  5. 十分理解できていないところは何だろう?と自分に問いかけていました。

    個人にゆだねられた責任の範囲と、「自分のために」という価値観を混同していたのではないか?と思わされてきました。

    人には、個々人に、神からゆだねられた責任の範囲があると思います。自分がしなければいけないこと。しかし、それは「自分の責任」であったとしても「自分のために」という動機であってはならない。「自分に与えられた責任を果たす」ということが、方向性として、「自分のために」ではなく、自分以外の誰かの益となる、ためであるということが思わされました。

    また、逆に、受ける立場から見ますと、自分でできないことが、誰かが自分のためにやってくれた、その愛を謙虚に受け入れる。ということにつながるのかなと思わされました。

    人間という存在が、決して、個人一人では完結しないという点は深く納得です。

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  6. 今、決心できました。
    語句を削除するだけではなく、この一ケ月の間に「自分のために」書いたブログ記事をすべて非表示にいたします。そして、今後は、数は少なくても「誰かのために」書けるようになる記事のみをアップしてゆこうと思います。ありがとうございました。

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  7. meekさん、交わりをありがとうございます。

    人は人との関係性の中で「人間」になっていくのだと昔の日本人はもっと当たり前に知っていたのではないでしょうか。

    私は、教会をからだの部位やオーケストラの楽器に喩えている箇所が非常に好きです。この記述には社会における集団の質を考える上でのあらゆる知恵が語られているからです。

    なくてはならないパーツが全体を支えているような関係性はどの部分をとっても素晴らしく、全体の調和も保たれています。

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  8. そうなのでしょうね。昔の良き伝統が失われてしまった。ということは悲しむべきことですね。また、私など、残念ながら、古き良き関係性を継承できなかったと思います。でもこれからを見上げると希望があります、単に昔のものを取り戻す、ということだけでなく、新しく、現在に、また、未来に、その関係性の中で「人間」になるということを回復できるように願い、求め、日々実践してゆきたいと思います。気付かされたときに、素直に修正してゆけたら、と、思います。

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  9. saltさん、こちらでは初めまして。^^
    時々覗かせていただいていました。
    今も、saltさんのボッサを試聴させていただきながら、良い気持ちになっています。

    私も教会をオーケストラの楽器に喩えて考えるのが大好きです。以前、キリスト者の一致とは、ユニゾンではなくハーモニーだと言われたことがあり、非常に納得したものでした。異なる音色の楽器が異なる音程を奏で、それが指揮者の元で一つの壮大な音楽になる… 一種類の楽器のユニゾンでは到底表現され得ない世界ですよね。


    話変わって、半年ほど前に友人が、「人は自分のためには生きられなくても、自分以外の人のためにだったら生きられる」と語ってくれたことがありました。その人はクリスチャンではないのですが、それを聞いて、イエス様の「自分のいのちを得ようとするものはそれを失い、わたしとわたしの福音のためにそれを捨てるものはそれを得る」という言葉を思い出しました。神と隣人のために生きるときにこそ、自分のいのちが生かされる… 人のいのちとは、こうした縦と横との関係性の中でこそ育まれ、支えられているものなのだと、改めて思わされていました。ですからこのsaltさんの記事にも、大きくうなずきました。

    meekさん、関係性の中で考えるとき、自分に与えられた責任を果たすとは、まさに他者のためであるとも言えますよね。オーケストラでも、一人が変な音を出せば、楽曲全体がおかしくなってしまうように…

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  10. はちこさん、豊かなコメントありがとうございます。

    主が創造されるいのちあるものは、多様性の中に統一感があり一致がありますね。

    カルトはワンパターンのユニゾンです。

    左翼くずれが集まれば、アジビラ言語風の陳腐なイデオロギーにみことばの香りを消してしまうし、右翼くずれが集まれば」、「ニッポンには特別な計画がある」だの「親分はイエスさまだのなってしまう。

    もっと耳には聴こえないような美しい音楽が必要だと思います。

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