2010/10/12

エクソダス


昨日のリジョイスでは、演奏が終わってから兄弟姉妹たちとの交わりがあり、その中で「ニッポンキリスト教からエクソダスする」という話が出た。私はあまりこの種の表現は好きではない。自業自得で喧嘩しても、己を正当化するためにこの論理を使うことが出来る。お世話になった教会と不義理な別れ方をして、もっと中途半端な状態で悪態をついている見苦しい連中も大勢いる。

交わりの中で、「所属している教会から出て行くばかりがエクソダスではないと思います」と穏やかに控えめにmeekさんが語られた。牧師職でありながら、長い葛藤の末に結果として教団を出られたmeekさんのことばには重いものがあった。

2000年前、キリストを求めていた人は大勢いた。イエスを見た人も大勢いた。しかし、イエス・キリストと個人的に出逢った人はどれだけいただろう。彼のいのちとつながる出逢いをした人たちの共通点は、本物への「渇き」であった。自分を取り巻く環境や自分自身の在り様に、つまり人生そのものに本質的な「違和感」を感じていた。

この「違和感」がなければイエス・キリストと結びつくことは決してない。自分が「罪人」であることを知らず、彼が「救い主」であることがわからないなら、すれ違うしかない。

救われる前の「この世」に対する違和感、救われてからの「この世的なもの」に対する違和感をいずれも大切にすべきである。

何でもかんでも見るたび聴くたびに「アーメン」など軽く口にする人たちを私は信用しない。

さて、所属教会からのエクソダスの話に戻るが、もし、あなたの所属する教会があなたの「違和感」を育み、あなたを「本当の信仰」に導こうとしているのなら、それはそれで、その教会は信仰の初等教育機関としては役に立ったのだと言える。それは、律法が救いを得させることはなくても養育係として重要な役割を持っているのと同じ。

学校はいつまでも通うためではなく、卒業するためにある。そして、卒業するのは、受けるためではなく、世の中に与えるためである。

兄弟姉妹一人ひとりが発信源であることが望ましい。私たちが立派な何者かである必要はない。私たちが預かる神のことばが世の隅々を照らし、腐敗を食い止めるのだから。あなたと私は違っていても、手にしている聖書は一言一句同じ筈。それこそが「世の光」「地の塩」の意味である。

教会とはエクレシア、すなわち、「召し出された者」「目に見えないひとりの花嫁」「キリストのからだ」それ以外のことは聖書には書かれていない。

14 件のコメント:

  1. こんばんは。昨日の交わりでの発言から、このような格調の高い文章に紹介されるとは想定していませんでした(^^ゞ 。

    僕の発言の部分の補足なのですが、「エクソダス」の前に、「ニッポンキリストキョウカイ」という言葉が使われることがあると思います。この言葉は、鹿嶋春平太さんが使いはじめた言葉だそうですが、必ずしも鹿嶋さんと同じ意味では使われてはいないようです。また、明確に定義づけられているわけでもないと思います。つまり読み手がどのようにも解釈して受け止めることができる「たとえ話」のような機能をもった言葉だと僕は、理解してました。でも、、「ニッポンキリストキョウカイ」=既成のキリスト教会や組織ではないと思うのです。なぜならば組織を形成しようとするのも、守ろうとするのも、または破壊しようとするのも、離脱しようとするのも、「組織」に対してということが関心の中心になっているという点において、共通していると思うのです。

    そうではなくて、もっと違った次元において、「ニッポンキリストキョウカイ」という言葉で表現されるような「ある信仰の状態」からの「エクソダス」ということを言っているのだ、と僕は理解しているのです。

    それではそれはどういう状態なのか、というとさまざまな幅があると思いますが、今僕が思うのは第一コリント人への手紙3章でパウロが伝えようとしているところとかなり重なるのではないかな、と受け止めています。

    教会を変える、あるいは、教会から出るということは、さまざま複雑な事情があり、決して単純ではないと思います。ただ、どんなに自分がいる場所が変わったとしても、内面が「エクソダス」できていなければ、「エクソダス」もなにもないと思うのです。

    以上、僕の私見です。失礼をいたしました。m(_ _)m

    返信削除
  2. 丁寧なコメントをありがとうございます。

    「信仰のある状態」からの「エクソダス」というご理解、非常によくわかります。

    「信仰と群れ」の問題については、私も無駄なくらい考え尽くした感があります。

    みこころに従ってエクソダスしても、「約束の地」に入れたのはヨシュアとカレブだけですから。

    群れから出た群れも又群れ。一人ひとりが何を見ているかが問われるときが来ます。

    Ⅰコリント3章については、また17日にゆっくりお話しましょう。

    返信削除
  3. それがLukeさんやビオラサンが語り続けている事だと思います。しかしニッポンキリスト教界は勝手に誤解し、糾弾しているのが現状だと思います。
    それでもそのニッポンキリスト教界から、エクソダスし続けている兄弟姉妹が現れている事を、主に感謝しています。

    返信削除
  4. >エシュコルさん

    あっててよかったです。確認できてうれしいです。ありがとうございました。

    返信削除
  5. エシュコルさん、気を悪くされるかも知れませんが、わかってもらっていないようなので、はっきり書きます。

    私の現状認識では、それぞれが同じなどとは全く思っていません。

    前回も削除させてもらいましたが、私がほとんど交わったことの無い方のブログ「○○の森」や、良く知らない方「ビオラさん」の名前を、私のブログに出したりするのは礼儀に反していますのでよろしくお願いします。

    よく吟味されないままに、自分で納得のいかないものと簡単に結びつけられて、敵や味方にされては、私としては非常に迷惑です。

    私は本当に信頼している兄弟たちのブログでさえ、あえてリンクしていないと書いたはずです。

    私のブログに限らず、もう少し慎重にコメントなさらないと、あらゆるところで信用を失いますよ。

    返信削除
  6. >Saltさん

    私もよく考えずに、「あっててよかったです。」と書いてしまいました。もうしわけありませんでした。

    返信削除
  7. 交わりの中にある主を褒め称えます。
    ともすれば、エクソダスが一人歩きしたりスローガンになったりする事は注意しないとすぐに集団の中にあっては成長するカラシ種にもなります。
    かつて「納戸神」とも呼ばれたイエスですが、そのように隠れた所でただ一人、主との時間を取って向き合う信仰がなければ信仰同士であってもその交わりは空しいもの。
    その小さな違和感に気付かせてくださった神に、そしてエクソダスの時を定め、共にエジプトを出た主に、養育係を必要な時に必要な形で備えてくださった方がただ褒め称えられますように。
    イエスは子をして父の御心を行い、父を表し、聖霊はただ私達をしてキリストを表せる働きを行います。
    どの様に素晴らしい証も、その人をして表されるイエスの証、信仰の選択をしてきた生き方も助け主の業。驚くべきはそこまで徹底してその人に働かれた主を見つめたいものです。
    その時、人への誉めも賛美も妬みや呪いも自分と神との間にあるものを取り去ってもっとよく見えるようにしてくださいます。
    クリスチャンは良い行いやいい人にではなく彼に働いてもらい、時に彼の様に罵られるべきです。

    返信削除
  8. meekさん

    ここでは微妙なことは書ききれませんので、直接ゆっくりお話しましょう。

    交わりを楽しみにしております。

    返信削除
  9. 電気屋さん

    そうなんです。スローガンは嫌いです。

    信仰の勇者物語や祝福の秘訣的な信仰書も嫌な臭いがします。

    本当に良きものは、「人知れず」そして「どこにでも」あるものだと思います。

    返信削除
  10. >Saltさん
    ありがとうございます。17日を楽しみにしています。

    返信削除
  11. 難しいことはわかりません。
    私は献金と奉仕に異様にこだわる所から離れただけです。

    返信削除
  12. お金も奉仕も全く必要ないってことはないでしょうが、「異様にこだわる」のは問題ですね。

    賢明なご判断だったのではないでしょうか。

    返信削除
  13. Saltさん、失礼致しましたm(__)m

    返信削除
  14. エシュコルさん

    わかっていただけて嬉しいです。

    お返事ありがとうございました。

    返信削除