2010/04/23

教会に「行く」「行かない」

教会に「行く」「行かない」の議論はそもそも不毛だ。

キリストを信じているなら、教会とは私なのだから。

私が神にとっては、「いばらの中のゆりの花」なのだ。

集まったところが、「ゆりの花束」ならいいけれど、パチンコ屋の開店の花輪みたいな造花だということもある。

造花は枯れないが香りもしない。

生きた植物なら、根をおろしてさえいれば、いのちはめぐる。

だから、行くべきところがなければ、行かない方がずっと正しい。「どこかへ行く」という発想ではなく、キリストが私を集まりの起点にされると信じて時を待つ、あるいはアクションを起こすというのが正しい。

聖書は、「何でもいいからとにかく集まれ」とは言っていない。「集まることをやめたりするな」とは言っている。それは「集まりの質を保って集まりを保持せよ」という意味だ。

教会に「行く」にしても「行かない」にしても、その先に「礼拝」があるかどうかの方がずっと重要である。

ただ「行く」ことにも「行かない」ことにもそれ自体意味はない。

「長年教会に行き続けたけど礼拝したことがなかった」というほとんど意味のわからないようなことが実際にはあまりにも多い。

聖日礼拝を守るべきかどうかも、虚しい話題である。

日曜礼拝の参加者が礼拝しているとは限らない。大声で賛美歌を歌っている人が賛美しているとは限らない。断食祈祷している人が祈っているとは限らない。

私はキリストを経由して返ってくる手応えをくれるような兄弟姉妹との交わり以外は信用していない。私たちの交わりは、「御父ならびに御子イエス・キリストとの交わり」だと書いてある。

キリスト教用語を羅列するだけの馴れ合いなんて、特に交わりとは呼ばない。礼拝とは集まることでも歌うことでも祈ることでもない。

どんな教会でも、同じ聖書を使い、たいてい似たような祈りをし、大して変わらぬ歌を歌っている。そんなことは同じ信仰の証ではない。

十字架を経ていないものは全て偽物であり、よみがえりとともにないものにはいのちがない。

16 件のコメント:

  1. 痛快、痛快。
    書いてない事まで説教する輩の多い事、多い事。

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  2. 何か、しつこいようですが、(^^)

    まぁ誰がどんな気持ちで礼拝をしているか
    関係がないですよね、主とその方との問題で。
    だから、ずれた信仰の方が歌う聖歌まで、
    いちいち、心に留めていては暮らせない。(^^)
    自分のずれを確かめるだけで精一杯かな。

    問題のある集まりは沢山あるし、
    が、ここがSaltさんとの違いだなぁと
    いつも思うのですが、(^^)
    主の導きを待つのは当然ですが、
    それまでであっても、何処かに
    集っていた方が良いと思うのです。
    あっちこっちに顔を出してもいいし。
    訓練と思って。
    だって人間は100%の善もあり得ないように
    100%の悪も無理なんですから。
    ここは、多分中々すり寄れないかなぁ(^^)
    まぁ 考えの違う人は書き込みご遠慮なら
    どうぞ、お知らせ下さいね。

    ほんとに しつこくて すみません。

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  3. このコメントは投稿者によって削除されました。

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  4. ”一番の喜びは 私は主の奴隷です。”
    オネシモさん私はこのことであなたをほめます。
    ただ他の主の奴隷に対しての
    あなたの態度はほめられません。

    今回の話のポイントはオネシモさんの
    ”?”だけだと思います。
    それが、あなたが他の方の日曜日の行動に対しての評価だとおもっての話だと感じます。

    私も主の僕です。
    私は礼拝に対して100%しか求めません。
    他の僕に対しての%はそれほどきにしておりませんが
    自分が100%でない事を知るときにこそ
    私がキリストの100%にすがるときです。
    主は100%をご用意下さいます。
    善も悪もの人の評価であって
    両方とも罪のけっかでしかありません。

    イザヤ30-21が私の唯一の教師のなさること
    どうぞイエスキリストに良く聞かれて
    また、ご返事おまちしております。

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  5. いえいえオネシモさん、書き込み大歓迎ですよ。ゆばるさんが引用してくださったみことばについても、ちょうど思いめぐらせつつ、コメントを入れたところだったので、さらに考えさせられる良いきっかけとなりました。

    誰かが私と違っていても、それは当たり前のことで、違っていることは、そもそも楽しいことです。

    ただ一番大事なことで、私たちの思いが主とズレているのは、私自身であれ、誰であれ、きちんと見つめ直すべきです。「主の奴隷」であるなら、命令にないことを勝手にやってることはどう考えても間違いなのです。

    場合によっては、私が大きくズレていることだってあるのです。事実私はいろんな点で、人とズレているだけでなく、主のみこころを損なっていることもあるだろうと思っています。

    でも、自覚するように促された事柄に関しては、辛くてもそれを認め、修正しながら生きてきました。

    「信仰と群れ」の問題は、まだまだ奧が深いです。簡単に原則で語れるものではないと思います。ヘンテコな群れであろうと、そこで主が働かれる例は数多くあります。でも、群れにはいない人にだって、常に主は働きかけることがお出来になるというのも事実です。

    電気やさんのご指摘のポイントは、まさにその通りだと思います。

    馴れ合いのような「なかよしコメント」ではないのが、私のブログの唯一いいところだと感じています。

    私の発信をきっかけにして、少しでも多くの人が主に対してピュアに向き合えれば、それで良いのです。

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  6. >群れにはいない人にだって、
    常に主は働きかけることがお出来になる
    というのも事実です。

    はい、勿論そうです、山の中で働くたった一人の
    炭焼き人夫にも
    本人は気づかずとも、主はつばさで覆って下さいます。

    「集まりの質を保って、、、」
    こんな事を人間は出来るのでしょうか。


    イエス様は一人一人に適切にお答えを下さいますから
    Saltさんにあたえられた御言葉が私にも、、
    とはならないと思います。
    が、集まりに関しての主からのSaltさんへの
    御言葉を教えて頂けたら嬉しいです。
    だって、私には嫌でも集まれって、
    そればかりのように思うのです、これが私の最も
    苦手な事だからでしょうかね。

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  7. 電気屋さん、

    >それが、あなたが他の方の日曜日の行動に対しての評価だと おもっての話だと感じます。

    うーん、評価ではないんですけどね。
    人にはほとんど興味がないんです、
    よくない事だと思います。
    人に怒りを持つほどの愛情もないんです。
    もしかしたら、私は一生、誰とも話さず、会わず、
    暮らせるかもしれない、と思う事があるほどなんです。
    本当に、人に関心も興味も はい 愛もないのです。
    イエス様は、そういう私に「わたしが道、そのもの」
    と教えて下さったのです。
    イエス様が一人になられたのは、祈る時だけだったから
    気を散らさずに一人の祈りを何とか持ちたいと
    願い、それ以外は、主がいつも誰かとおられたように
    うんざりだけど、一人を避けて誰かといるように
    助けて頂いているのです。
    主が喜ぶことを喜び、主が嫌がる事を嫌がり、
    主が笑う事を笑い、

    集まりの中で私は人を評価しない 
    と 必ず言われるのです
    が、ただ、興味がないだけなんです。
    愛がないだけなのです。

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  8. オネシモさん、コメントありがとうございます。

    「集まりの質を保つことが人間に出来るか」と問われれば、答えはノーでしょう。

    しかし、私たちには管理者としての責任があります。諸教会に当てたパウロの手紙は、すべて集まりの質を保つためのメッセージだと言えます。

    「何でも神さまに丸投げ」的な発言や、「それぞれがそれぞれの確信によって歩む」ことの容認には、信仰ではないものが混じっている可能性があります。

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  9. オネシモさんへ

    ”集まりの中で私は人を評価しない”
    私はすぐ自分の物差しで人を測りたがりますので、
    そのような自分でありたいです。
    パウロも少し違いますが人からの評価については気をつけているようですし、ゼロでも無いけれど大きくはない。その程度のモノでありたいです。

    オネシモさんは一つだけ間違っている事があると思います。

    ”愛がない”
    以前は私もそうでした。
    ないものに出来ることは頂くこと
    葡萄酒がないからこそ「私たちには、ありません」と言えます。
    私は遠慮なく頂いてます。あの方は、与えたいかたです。
    信仰、希望、愛、全て良いものは天から来ます。
    中途半端に自分で水増しするのではなく良い葡萄酒を。

    ヨハネ第一4章全体ですが

    4:8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

    神を知りながらその様な悲しい嘘を言わないでください。ないものからあるようにとりだすかた、無から有を創り出すかた、その方の業を一緒に見ましょう。

    イエスは一人が好きだとおもいません。
    祈りの時も一人ではありませんでした。
    そもそも私たちを造られた理由もその辺にもあると思います。人が一人でいるのは良くない。神がそう言っています。

    イエスが一人だった時は、十字架の上
    墓に入られたとき、弟子からも父からも見放された時

    イエスは私たちにその様な思いをしてほしくないと思います。
    インマヌエル、主は共におられます。
    共に集まり、共に交わり、共に礼拝しましょう。
    復活したら、イエスは又会うことを約束なさいました。
    主の山に備えがあります。私たちは共にイエスに会います。本当にそれが私の楽しみです。私の喜びを共に喜んでください。
    ありがとうございます。

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  10. オネシモさん、電気やさん、ありがとうございます。

    大事な問題だと思うので、もう少しだけ書くことを許してください。

    自分のものさしで人を評価しあう必要はないし、その際に自分に愛があるかなんか問題ではないと思います。

    オネシモさんも、「自分は愛がない」とおっしゃっていても、「他の人には愛があるに自分にはない」という意味ではなく、「自分には少なくとも愛と呼べるものがない」と認識していると言っているように聞こえます。

    しかし、そんな甘い自己評価(ゴメンナサイ)なんてどっちでもいいのですよ。「自分には愛がない」と思うことも、「愛ある者になりたい」と思うことも、その発想は表裏一体です。

    私たちはみことばによって己も他者も吟味するという務めがあります。それはクリスチャンとしての責任なのです。

    「とりあえず目の前にある教会へ行け」「居心地の良い集まりに参加せよ」と書いてある箇所は聖書にはありません。

    私の持っている聖書は、誰もが持っている聖書です。

    私が言いたいのはそういうことで、私の体験や感じ方ではありません。

    人が真面目に何かを語るとき、その人の人格の香りがし、体験が織り交ぜられ、しばしば感情を伴うことでしょう。しかし、私のメッセージは、煎じ詰めれば「聖書にはこう書いてあるでしょ」ということに尽きるのです。

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  11. ほんとうに、しつこくて ごめんなさい。
    これが終わりとしますね。

    愛のない者に神は分からない。
    私には愛はありません、全然悲しくもないし
    当然と思います。なにを気を使ってるの?って
    感じです。
    私には愛はないですが、内なるお方は
    愛だけのお方。それで十分なんです。
    ヨハネさんが言われたのは、人の愛ではないと
    読んでいます。
    霊としての愛がない者には、神は分からない。
    その通りと思います。
    聖書を読みますが、私が吟味するのではなく
    「聖書が私を吟味し判断される」と思っています。

    居心地の良い集まりなら、行かなくていいかも。
    好きな物を食べて、好きな事をして、好きな人とあって
    楽しくて 同じですから、わざわざ行かなくたって。
    ね。(^^)
    主にある者は環境を変えてくれて喜びになるのじゃない
    その環境の中で喜べるんですよ。
    悩みのその真ん中に主がおられるの、
    あぁ もったいない。

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  12. 今回もおもしろかったですよ。
    主がオネシモさんという、興味深いキャラをもちいられて、私も思ってはいたけれども、言葉にしてなかった事を形にさせていただきました。
    なんだか最後は2x1のタッグマッチの様になってしまい申し訳ないようにも思いましたが、ギブアップしないオネシモさんを驚異と尊敬をもって今回はゴングということで、またお願いします。

    では、また

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  13. >今回もおもしろかったですよ。

    そうですか。そのように捕らえれているなんて
    思ってもいませんでした。
    主に関しては、真面目に語っていきたいと
    いつも気をつけています。
    電気屋さんのジョークの一つとなっていなたんて。
    びっくり(^^)

    >ギブアップしないオネシモさんを驚異と尊敬をもって今回はゴングということで、またお願いします。

    主の事だったので、面倒でしたが、
    ちゃんとしようと思っていました。

    遊びなら遊びだよ とおっしゃって下さい。
    私は本当に世間知らずの馬鹿なので
    不愉快な思いをさせてゴメンなさいね。

    多分、これへの返答もあるのでしょうが
    お気に入りから消しますので、あしからず。
    あなたが言われたように、では、また。

    又、エルコシさん(?)のブログに
    これを転送されているようですが、
    自分の書き込みがあるので、なーんか嫌でした。

    では。では。またの機会に(^^)

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  14. オネシモさんへ

    私の言葉に対して誤解を与えてしまい、もうしわけありませんでした。
    ジョークのつもりはなく、本気になれたことがおもしろかったという表現になりました。
    今回の事は集まり、交わり、礼拝を深く考えさせて頂きました。ありがとうございました。

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  15. オネシモさんへ・・・・



    せっかくの交わりがこういう終わり方ではちょっとさびしいので、もう少しだけコメントします。

    「遊び」を悪い意味にとったことはありませんが、電気やさんのコメントの「おもしろかった」は、オネシモさんの思っておられるようなニュアンスとは全く違っていると言い切れます。くれぐれも、誤解のないようよろしくお願いします。

    礼拝に関することですから、まともなクリスチャンであれば、自分の信仰のあり方にこだわるのは当然のことです。

    オネシモさんがきちんとコメントしてくださったことに感謝しています。電気やさんも純粋に敬意を払っておられると思います。私もまじめに答えたつもりです。

    それと、エシュコルさんに記事を転送した事実はありません。
    これも全くの誤解です。過去にもそうしたことは一度もないし、これから先もありません。

    私はそういう具合に群れるのは嫌いなんです。そんな風に誤解されるのも心外です。

    だから、私のブログには誰のリンクも貼ってないでしょ。誰かのお気に入りになる気もありません。

    私は誰の仲間でも味方でもありません。「主の軍の将」の前にひれ伏す者だけが同志であり真の兄弟姉妹だと信じています。

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  16. オネシモさんへ
    ブログ見て下さった様で有り難う御座いますm(__)m
    記事は勝手に転送させていただきましたが、オネシモさん達のコメントまではしていないハズですが。

    Saltさん
    リンクも無い殺風景なのはそういう訳だったのですか。やり方が分からなかったのかな、とばかり思っていました。失礼しましたm(__)m

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