2010/04/04

しおどき

今日は、SiGNの写真茶話会に行く予定だったが、引っ越し先のない工房の片付けに追われた。

一枚一枚絵をはずしながら、一枚一枚を同じ絵をかけていたときのことを思い出した。

キリスト教徒にとってはおよそどっちでもよさそうな「村おこし」に関わったのには、私なりのちょっとしたこだわりがあった。

どこの村や町に行っても、その集落に住む人を無視して、ひたすら「教え」や「文化」を押しつけてきた世界宗教としてのキリスト教に対して、私は強い反発を持ち続けているからだ。この世に厚顔無恥のおせっかいほどウザったいものはない。それをわが主の名と権威をもって人殺しまでやるのだから、赦されようはずがない。

アメリカの星条旗信仰を批判して教会を追われたから根にもって恨んでいるわけではない。ただ、イエスはそういうやり方は決して好まれないという確信があるのだ。そうした熱心は正しい知識によるものではない。

室生での村おこしにおいて私が自分に課したテーマは、「何もない村にある価値を相対化すること」そして、「参加者にアートを通して体感してもらうこと」だった。私は「価値を相対化出来る力」や、「自然のうつろいを味わいアートを楽しむ心」は福音の種を育てる土壌だと思うからだ。

集団の中に溶けこもうとしても、やはり私は溶け残る異物であったという証明を得たことは、当然の結末と言えばそれまでなのだが、みんないい人ばかりなので、気持ちは多少複雑である。

片付けの合間に食堂でうどんを食べていると、「またたっぷり時間が出来たら、戻ってきてください。待ってますから」と館長の奥さんが声をかけてくれた。

関係者の方々は、私が出て行ってほっとしておられるだろうし、反面、まさか出て行くとは思っていなかっただろうと想像する。彼らが組織として私に出した提案は、「妥協」を迫ると言うよりは、「交換条件」という程度のもので、普通の人ならまずOKしている程度のことだったからだ。

しかし、この提案は、私にとっては潮時、まさに「塩時」を教えるものとなった。ちょうどこの話に前後して4月からは6年ぶりに学級担任に復帰することが決まった。どんなに時間をうまく使っても、管理運営上の規則を守れそうにはない。

工房運営に関しては、やはり自分の力量不足を痛感した。「忙しい」「しんどい」は言い訳にならない。複数の人をみんなに気持ちよく動いてもらうのは難しいし、経済をまわすのも大変だ。でも、もう少しうまくやれば不可能ではなかった。まだまだ何処かに甘さがある。いつかまたどこかで何かを始めるとしたら、その時の良い準備になった。

2 件のコメント:

  1. Saltさん 甘さがあっていいんですよ。
    甘さは塩加減の中にあり
    甘さが無いと蟻もよって来ませんから。

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  2. あんまり無計画もよくないのですが、緻密な計画を立てて、複雑な人間関係を読み切って根回しするのは、どうも性に合わないのですね。

    それで、基本的に無防備でスキだらけなのです。

    確かにそういう感じだからこそ、多くのスタッフが喜んで手を貸してくれるのかなとも思います。

    これからも、程よい甘さと塩加減を追求します。

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