2010/04/01

走り寄る愛

互いに肉体という弱さや制限を負いながら「イエスを共有している」ということの価値、この時空にあって永遠の今を生きていることの素晴らしさを思う。

主が与えてくださる出逢いとそのタイミングはいつも人知を遥かに越えている。交わりは、確かに主よってつながれている。

ヨナの頭上には「とうごま」が、ザアカイの足元には「いちじく桑」が備えられる。そして、アナニヤやパウロに、コルネリオはペテロに会いに行く。

しかし、クリスチャンは「宣教」とか「伝道」のために生きているわけではない。「生きることがキリスト」であるから、死ぬことも益なのだ。キリストではない事業を目的にするといのちを失う。教団や教会という組織による囲い込みの無意味と無力を笑おう。

この世における成功にも失敗にもそれ自体には意味はあまりない。「今どこにいて何を見ているか」大切なのはそれだけだ。

もし主を正しく主とするなら、私たちは祝福から逃れることなど出来ない。私たちが自らの重さで何処まで堕ちてもさらに主は低いところで受け止めてくださる。闇が深ければ深いほど光はその輝きを増す。

今日は走り寄る父の愛を感じ、胸いっぱいで過ごすことが出来た。準備されるのは、ぴったりの服、ぴったりの指輪。ぴったりの靴。

3 件のコメント:

  1. 使徒行伝の時代を私たちは生きているリアルさを感じる
    主のストーリーの続きを見てみたい。

    返信削除
  2. >しかし、クリスチャンは「宣教」とか「伝道」のために生き
    >ているわけではない。「生きることがキリスト」であるか
    >ら、死ぬことも益なのだ。キリストではない事業を目的にす
    >るといのちを失う。教団や教会という組織による囲い込みの
    >無意味と無力を笑おう。

    まことにアーメンの一言。ここを勘違いしたキリスト教徒たち。まことにある意味で悲惨ですが、ある意味滑稽なのですね。

    「ぴったりのXXX」をもっと味わいたいものです。

    電気やさま、私の方へのレスもどうもでした^^

    返信削除
  3. 指輪や靴は特にぴったりだと気持ちいいです。

    主の準備してくださるものは、すべてがオーダーメイド。

    日々、「ぴったりのXXX」を楽しみたいです。

    返信削除