「ヨシュア記」をテキストにした2010年のシリーズ「約束の地カナン」を本日終了した。「約束の場所へ」というのは、いろんな意味で向こう数年間の私のテーマでもある。
私が話した内容は、「ヨシュア記」という大河のわずかな滴りにすぎない。興味のある方は御自身で聖書をひもとき、本当に私が語ったようなことが書いてあるのかどうかを詳細に吟味していただきたい。
私のメッセージにはそうするだけの価値は十分にある。それは聖書のことばを少しも薄めず、他のものを混ぜずに語っているからだ。
聖書からのメッセージを語り終えるとものすごく疲れる。決して悪い疲れではない。しかし、全然楽なことではない。
みだりの神の名を語ることは許されず、神のことばを借りて好き勝手な身の上話や自己主張をすれば己を滅ぼすことになる。こんなリスクを誰が好きこのんで負うものか。
私は別にクリスチャンになりたかったわけではなく、教会に行きたかったこともなく、牧師なんてこの世のクズだと思っていたのに、なぜか「似たようなこと」をやるはめになった。
聖書を読む限り、自分から立候補した預言者はいない。神が一方的な主権で導かれたことにのみ、拠り所がある。神が責任をとってくださる。
取りあえず、内側から突き動かすものがある限り語り続けなければならない。来年以降のことはまだわからない。明日のことは明日が考えるだろう。
とりあえず、ホッと一息。
追記
返信削除来週はクリスマスのメッセージをする予定です。
特に今年は気乗りしないので、変わった切り口のメッセージになるでしょう。
もちろん、どんな切り口であろうが、メッセージは「聖書そのもの」ですが・・・・
「私のメッセージにはそうするだけの価値は十分にある。それは聖書のことばを少しも薄めず、他のものを混ぜずに語っているからだ。」
返信削除傲慢にも取られそうな言葉ですが、
旧約の預言者も同じこと
人の意欲や熱意ではなく
語るのは召しによるもの
ヨシュア記ご苦労様でした。
そしてありがとうございます。
Salt さんのクリスマスメッセージ楽しみですが、
なんだか笑えますね。
あっ、「牧師なんてこの世のクズ」は
そんなものですね。御言葉にも良く似た書き方もありますし。
また、よろしくお願いします。
よ~くご承知のように、私はただの馬鹿ですが、みことばが偉いのです。情報の価値が永遠を左右しますから、ハンパねえ。
返信削除「火事だ!」とか、「王様は裸だ!」とかいうのと同じで、犬が吠えても子どもが叫んでも、情報そのものに意味があるということです。