2010/12/23

振り返り(仕事編)


ちょっとした仕事の振り返りを・・・・

現場の仕事にどれだけのエネルギーを注ぐ価値があるのかを自問自答しつつ、常に「行き過ぎ」「やり過ぎ」がないようにセーブしている。

「目の前の子どもの為」を思って先走っても、誰にもありがたがられないことも多い。それが現実というもの。ここで怒っても焦っても仕方がない。「憂い」から「優しさ」が育つ。

しかし、いろんなことが見えていて手をこまねいているようでは、私が関わっている意味がないではないか。

とは言え、システム上の問題や物理的な限界から、私が関われる範囲はきわめて限られている。ピンポイントで効率の良いアプローチを計算する。

そこで、私が自らに課しているのは、「ニーズがあったときに、ニーズ以上の答えを出すこと」である。その為には心と力に「十分なゆとり」が必要だ。

正直、久々の担任復帰でそういう「十分なゆとり」はなかった。満足のいくような結果が出せたわけではない。

ただ「子どもと触れ合う感覚」は戻って来た。そんな感覚が戻ってくるにしたがって、やたら子どもたちが引っ付いてくるようになった。そういうことが好きなタイプではない。うっとおしいが、ことばではない五感で通じ合えた瞬間には、独特の醍醐味はある。そういう子どもは牙をむいて逆らったり、狡い隠し事はしなくなる。

子どもの成長のためには、細かい条件や注文をつけずに、自分を丸ごと受け止めてくれるような存在が必要なのだ。

別に切羽詰ったり悩んだりはしないが、まだまだこの程度の「ささやかなゆとり」と「対応力」では情けない。さまざまなニーズに対して、「思っていた以上の」また「思いもよらぬ」答えを出せるように、元気と勇気をたくわえる冬休みにしたい。

2 件のコメント:

  1. 子どもの成長のためには、細かい条件や注文をつけずに、自分を丸ごと受け止めてくれるような存在が必要なのだ。

    その通りだと思います。

    細かい条件や注文などなくてもしっかり成長するいのちと、どこまでも甘え脆弱ないのち、その違いはなんでしょう。

    昨日、校内でもったケース会では担任の立場でSaltさんのように考えられる人はいないです。私はその人たちの胸におさまる説明ができませんでした。今もモヤモヤしています。
    今さらながら”学校”とはなかなか難しいところです。

    返信削除
  2. まあ、学校文化のエリートたちが教員になってることが多いから仕方ないね。学校が苦痛で退屈だった私みたいのは、フツーは教員にはならないですから。

    仮に私は感じたままの違和感を露わにしても、「てめぇこそ目障りなんだよ」という視線を浴びさせれるだけなので、ひたすら耐えて、私に許されている範囲で楽しくやるだけです。

    「カエサルのものはカエサルに。しかし、神のものはきちんと神に返そう」そう思っています。

    何が正しいかは明らかです。それは子どもがちゃんと知ってますよ。

    返信削除