2009年は、私のファミリーにとっても楽しいことや辛いことがたくさんあった1年だった。
長男の浪人と妻の入院と手術は予定外だったが、それを埋め合わせるかのようなプレゼントもいくつかあった。妻と久しぶりに旅行に出かけたり、娘の体育大会や文化祭、そして、息子の野球の応援にも出来るだけ顔を出したりもした。
私の活動の中では「風のメロジア」の発売や月1回継続できたリコーダー講座は大きな出来事だった。新たな出逢いや挑戦もあり、創作の幅もさらに広がり、自分なりのボサノヴァスタイルも少しずつ見えてきた。
そして、冬と夏の2度にわたる北海道への旅は、非常にすばらしいものだった。屈斜路湖での洗礼式は、特に思い出深い。教会では大きなビジョンを掲げず、長年にわたって淡々と聖書そのものを語ってきたわけだが、ここ数年の全国の兄弟姉妹との交わりを通して、神の配剤による大きな絵を垣間見ることが許されている感じだ。
死ぬまで右肩上がりで生き抜く予定の私としても、まずまずよくやれたのではないかと思っている。
来年はあらゆる方面でもっともっと面白いことがいっぱい起こるはずである。神は間違いなく祝福にかわる新しい祝福をこれでもかと準備してくださっているからである。
そして、もちろん特別な出来事に期待する以上に、淡々とした日常をさらに楽しく充実させることが大切だと思っている。徘徊業もあと3ヶ月だが、日々を大切にキチンと締めくくりたい。
来春には上と下の子どもが進学したかと思えば、真ん中が受験生になる。子どもたちの活動や経験の範囲も広がり、手はかからなくなるが、ますますお金はかかりそうだ。子育ての道険し。かじられるスネを鍛えねば。
さまざまなかたちで私と私の家族に関わってくださった方々に、心からの感謝の意を表したい。
主イエスの御名によって、皆様に豊かな祝福がありますように。
良いお年を。
2009/12/31
マイケル・ジャクソン オックスフォード大学での講演
オネシモさんのご紹介を受けて、マイケルジャクソンのオックスフォード大学におけるスピーチを聴いた。
強烈なビートの渦の中で躍動するマイケルとは違う繊細な一面が十分にうかがい知れる。
声の調子といい、内容といい、うまく表現することばが見つからないが、私にとっては、多くの人たちが絶賛するオバマの就任演説よりも遥か切実なものを感じ、本当のことが語られている印象を受けた。
父親との葛藤について語りながら、受け入れがたかった父親の人格が、その世代の南部の黒人が生きづらい状況がそのようにさせたのだと分析して許そうと思っていることや、毎週日曜日に「エホバの証人」の広告塔として布教に借り出される中で、自分以外の普通の子どもの日常の姿に触れて、自分の置かれている特別な状況を相対化して非常に辛かったことなど・・・マイケルの苦悩の核心の部分が赤裸々に語られていた。
自分が、なぜこれほどまでに、子どもの権利や幸せについてこだわるのかということにも熱を込めて語っていた。メディアが面白半分に伝えてきたマイケル・ジャクソンとは、全く違う事実をこのスピーチから知ることが出来る。
※ ※ ※ ※
以下は、マイケルのことばを一部ご紹介。
Tonight, I come before you less as an icon of pop (whatever that means anyway), and more as an icon of a generation, a generation that no longer knows what it means to be children.
今夜わたしは、ポップの聖像(この意味はともかく)としてでなく、同世代、つまりもう子どもではない世代の聖像として、ここに立っています。
All of us are products of our childhood. But I am the product of a lack of a childhood, an absence of that precious and wondrous age when we frolic playfully without a care in the world, basking in the adoration of parents and relatives, where our biggest concern is studying for that big spelling test come Monday morning.
私たちはみな、幼児期の産物です。子ども時代は、人格形成に大きく影響します。でも、わたしにはすばらしい子ども時代はありませんでした。両親や周りの大人からの愛情を一身に浴び、最大の心配事といえば月曜日の朝のスペリングテストしかないような、夢中になって遊べるはずの貴重な時期を過ごさずに来てしまいました。
http://www.allmichaeljackson.com/speeches/oxforduni01.html
an icon of pop (whatever that means anyway)と、All of us are products of our childhoodという表現が痛々しい。
強烈なビートの渦の中で躍動するマイケルとは違う繊細な一面が十分にうかがい知れる。
声の調子といい、内容といい、うまく表現することばが見つからないが、私にとっては、多くの人たちが絶賛するオバマの就任演説よりも遥か切実なものを感じ、本当のことが語られている印象を受けた。
父親との葛藤について語りながら、受け入れがたかった父親の人格が、その世代の南部の黒人が生きづらい状況がそのようにさせたのだと分析して許そうと思っていることや、毎週日曜日に「エホバの証人」の広告塔として布教に借り出される中で、自分以外の普通の子どもの日常の姿に触れて、自分の置かれている特別な状況を相対化して非常に辛かったことなど・・・マイケルの苦悩の核心の部分が赤裸々に語られていた。
自分が、なぜこれほどまでに、子どもの権利や幸せについてこだわるのかということにも熱を込めて語っていた。メディアが面白半分に伝えてきたマイケル・ジャクソンとは、全く違う事実をこのスピーチから知ることが出来る。
※ ※ ※ ※
以下は、マイケルのことばを一部ご紹介。
Tonight, I come before you less as an icon of pop (whatever that means anyway), and more as an icon of a generation, a generation that no longer knows what it means to be children.
今夜わたしは、ポップの聖像(この意味はともかく)としてでなく、同世代、つまりもう子どもではない世代の聖像として、ここに立っています。
All of us are products of our childhood. But I am the product of a lack of a childhood, an absence of that precious and wondrous age when we frolic playfully without a care in the world, basking in the adoration of parents and relatives, where our biggest concern is studying for that big spelling test come Monday morning.
私たちはみな、幼児期の産物です。子ども時代は、人格形成に大きく影響します。でも、わたしにはすばらしい子ども時代はありませんでした。両親や周りの大人からの愛情を一身に浴び、最大の心配事といえば月曜日の朝のスペリングテストしかないような、夢中になって遊べるはずの貴重な時期を過ごさずに来てしまいました。
http://www.allmichaeljackson.com/speeches/oxforduni01.html
an icon of pop (whatever that means anyway)と、All of us are products of our childhoodという表現が痛々しい。
2009/12/30
2009/12/29
This is it
遅まきながら、マイケル・ジャクソンの「This is it」を観た。
スリラーの大ヒットしていた時期は、ほとんど音楽も聴かず、世捨て人のような日々を多くっていたので、マイケルの音楽にもダンスにもほとんど興味も持たずに過ごしてきた。
目にしてもビデオクリップ1本程度で、これだけまとまってマイケルの音楽と向き合うのは初めてのことだった。
ライブでも立つか座るかぐらいしか動きのない私にとっては、マイケル・ジャクソンの動きは驚異的だったし、その才能の豊かさとショーのスケールにも感心した。
マイケルのショーのねらいは、スタッフを前にして彼自身が語っていたように「観客に日常を忘れる体験を提供すること」だ。
今の私に与えられた条件では、それは求めても難しいだろうし、追求しようとも思わない。むしろ、私は「日常を見つめ直すきっかけになる演奏をしたい」と思っている。そんなことをしみじみと考えていた。
もちろん追悼作品だが、その実は「その死にあやかって儲けてやろう」という意図のマイケル礼賛Movie・・・
マイケルはあんなふうに賞賛されることではなく、もっと普通に愛されたかったんだと思う。スポットを浴びて輝いている瞬間にも、マイケルがどこか寂しげに見えたのは私だけだろうか。
スリラーの大ヒットしていた時期は、ほとんど音楽も聴かず、世捨て人のような日々を多くっていたので、マイケルの音楽にもダンスにもほとんど興味も持たずに過ごしてきた。
目にしてもビデオクリップ1本程度で、これだけまとまってマイケルの音楽と向き合うのは初めてのことだった。
ライブでも立つか座るかぐらいしか動きのない私にとっては、マイケル・ジャクソンの動きは驚異的だったし、その才能の豊かさとショーのスケールにも感心した。
マイケルのショーのねらいは、スタッフを前にして彼自身が語っていたように「観客に日常を忘れる体験を提供すること」だ。
今の私に与えられた条件では、それは求めても難しいだろうし、追求しようとも思わない。むしろ、私は「日常を見つめ直すきっかけになる演奏をしたい」と思っている。そんなことをしみじみと考えていた。
もちろん追悼作品だが、その実は「その死にあやかって儲けてやろう」という意図のマイケル礼賛Movie・・・
マイケルはあんなふうに賞賛されることではなく、もっと普通に愛されたかったんだと思う。スポットを浴びて輝いている瞬間にも、マイケルがどこか寂しげに見えたのは私だけだろうか。
2009/12/28
Z
先日、紹介したフルート奏者「笛吹童子くん」のために曲を書いた。
ボサノヴァにしたので楽譜を書くのが面倒くさい。ボサノヴァは通常2拍子で表現するので、3拍子や4拍子よりもずっと書きづらい。あまり気がすすまないのだが、やはり音楽の保存や伝達の手段としては楽譜は非常に便利がいい。
クラシックベースの人なので、細かいところもキチンと書いておかないとニュアンスも伝わりにくい。コードもざっくりつけてみたが、まだまだ工夫の余地はありそうだ。フルートのために曲を書いたのは初めて。音色と音域などの楽器の特性を意識したが、そんなに幅広い音域をフルに使ったわけではなく、Salt流のインスト・ボッサにした。とりあえずは完成。
赤いフェアレディZに乗って爽やかにドライブする彼のイメージに合わせて、タイトルを「Z]とした。
明日さっそく音合わせをし、1月のリコーダー講座で披露してもらおうと思っている。
ボサノヴァにしたので楽譜を書くのが面倒くさい。ボサノヴァは通常2拍子で表現するので、3拍子や4拍子よりもずっと書きづらい。あまり気がすすまないのだが、やはり音楽の保存や伝達の手段としては楽譜は非常に便利がいい。
クラシックベースの人なので、細かいところもキチンと書いておかないとニュアンスも伝わりにくい。コードもざっくりつけてみたが、まだまだ工夫の余地はありそうだ。フルートのために曲を書いたのは初めて。音色と音域などの楽器の特性を意識したが、そんなに幅広い音域をフルに使ったわけではなく、Salt流のインスト・ボッサにした。とりあえずは完成。
赤いフェアレディZに乗って爽やかにドライブする彼のイメージに合わせて、タイトルを「Z]とした。
明日さっそく音合わせをし、1月のリコーダー講座で披露してもらおうと思っている。
2009/12/27
腐った卵
「システムが自分を支えてくれる」というのは幻想だ。
良い学校、良い会社に入っても、自分が何者でもなければ、「人材」としての顔のない私をシステムに売る時の管理番号を得るだけのこと。
所詮、自分で笑う力の無い奴は、TVを消したら退屈でたまらくなるのと同じだ。
「富国強兵」や「殖産興業」などという目標が高らかに謳われていた頃と、行く先を失い、舵の折れた船のようになっている現在の日本の政治はどちらが正しいのだろう。
右肩上がりを続けた高度成長を遂げた時代や、皆が浮かれたバブルの頃の経済状態は幸せだったのだろうか。
教師が尊敬され、あらゆる指示が徹底していた戦前の学校と、教師が軽んじられ、いじめや不登校がある戦後の学校ではどちらが過ごしやすいだろう。
私は何をとっても、明らかに現在の方がマシだと思っている。
これまで安全だ、絶対だ、と思っていた価値がいかに当てにならないものであるかが、はっきりわかったのだから。
過去の目標や成長や秩序は、すべて偽物であり、現在の混沌こそが真実なのだから。
楽園と同時に神を失った人が、エデンの東に作り上げて来た都市という「システム」の壊れた核が露わにされるだろう。人間は「近代化」とともに人間性を失っていくのではない。人間性そのものが神から離れた時点で壊れていたのである。
「システム」のせいではない。「卵」はひびが入る前から腐っていたのだ。
良い学校、良い会社に入っても、自分が何者でもなければ、「人材」としての顔のない私をシステムに売る時の管理番号を得るだけのこと。
所詮、自分で笑う力の無い奴は、TVを消したら退屈でたまらくなるのと同じだ。
「富国強兵」や「殖産興業」などという目標が高らかに謳われていた頃と、行く先を失い、舵の折れた船のようになっている現在の日本の政治はどちらが正しいのだろう。
右肩上がりを続けた高度成長を遂げた時代や、皆が浮かれたバブルの頃の経済状態は幸せだったのだろうか。
教師が尊敬され、あらゆる指示が徹底していた戦前の学校と、教師が軽んじられ、いじめや不登校がある戦後の学校ではどちらが過ごしやすいだろう。
私は何をとっても、明らかに現在の方がマシだと思っている。
これまで安全だ、絶対だ、と思っていた価値がいかに当てにならないものであるかが、はっきりわかったのだから。
過去の目標や成長や秩序は、すべて偽物であり、現在の混沌こそが真実なのだから。
楽園と同時に神を失った人が、エデンの東に作り上げて来た都市という「システム」の壊れた核が露わにされるだろう。人間は「近代化」とともに人間性を失っていくのではない。人間性そのものが神から離れた時点で壊れていたのである。
「システム」のせいではない。「卵」はひびが入る前から腐っていたのだ。
2009/12/26
すべらない話
「すべらない話」というのが人気らしい。子どもがテレビをつけていたので、私も興味があってちょっとだけ見ていたが、すぐにアホらしくなって自室にこもった。誰にでもどこにでもあるような話題を、お笑い芸人が脚色して話しているだけじゃないか。それが松本流だというのはわかるがどうも感心しない。個人的には松本は笑いのツボを心得ていると思う。M1グランプリでも、審査員の松本のコメントが、漫才自体より面白い。
松本に限らず、伸助にしても、タケシにしてもそうだが、サブカルチャーの担い手が、ショービジネスの玉座にふんぞり返っているのは、絵としては非常に醜い。タケシなんかはフライデーで叩かれてなきゃつまらない。タケシのボケにうなづく構図が出来上がったところで予定調和的にボケたって、何が面白いのかと思うが。
M1にしてもそうだが、必死に笑わそうとする巨大な仕掛けばかりが気になって、悲しくなって腹を抱えては笑えない。
不安で退屈で、忘れたいことが多すぎて、真面目に考えるのが嫌で、笑いたくて待ちかまえている人を、その仕掛けに招き入れて笑わす。この遊園地っぽさというか、国民的な幼稚さに苛立つ。
別にDVDにはしないが、私の日常はもっと面白いので、ブラウン館の中の「すべらない話」は私の中ではすべっているのだ。
TVのお笑い番組なんか見てないで、すべらない日常をenjoyしよう。他人に笑わせてもらわないと笑えないなんて、はっきり言って情けないぜ。
松本に限らず、伸助にしても、タケシにしてもそうだが、サブカルチャーの担い手が、ショービジネスの玉座にふんぞり返っているのは、絵としては非常に醜い。タケシなんかはフライデーで叩かれてなきゃつまらない。タケシのボケにうなづく構図が出来上がったところで予定調和的にボケたって、何が面白いのかと思うが。
M1にしてもそうだが、必死に笑わそうとする巨大な仕掛けばかりが気になって、悲しくなって腹を抱えては笑えない。
不安で退屈で、忘れたいことが多すぎて、真面目に考えるのが嫌で、笑いたくて待ちかまえている人を、その仕掛けに招き入れて笑わす。この遊園地っぽさというか、国民的な幼稚さに苛立つ。
別にDVDにはしないが、私の日常はもっと面白いので、ブラウン館の中の「すべらない話」は私の中ではすべっているのだ。
TVのお笑い番組なんか見てないで、すべらない日常をenjoyしよう。他人に笑わせてもらわないと笑えないなんて、はっきり言って情けないぜ。
2009/12/25
2009年の音楽活動を振り返って
アトリエSUYOクリスマス会の演奏を終えて、2009年の音楽活動はおしまい。
Uribossa氏のリクエストもあったので、振り返ってみよう。
今年は、リコーダー講座の伴奏者として手伝ってもらったMomoちゃんとOz-Mayというユニットを結成。まさかこれにオファーが来るとは・・・銀治郎氏規格の神戸の出張講座がものすごく楽しかった。イトーヨーカードーのイベントにも参加し、これはDVDにもなっている。
とにかく、Momoちゃんのおかげでリコーダー講座は、非常に充実したものになった。私の自作曲に加えて、クラシックや叙情歌、ジャズやポップスのスタンダードナンバーもやり始めますます楽しい。スペシャルは、野田さん&赤星さんの飛び入り参加、そして、笛吹童子参上である。いやあ、毎回ドラマ、ドラマ。
スーちゃんとのケーナ&ギターユニットSalt&VinegarとOz-Mayが合体してTetraを結成。これにも及びがかかり、ハーブクラブではお月見ライブに出演、さらに来年の出番まで決まっている。ところが、ここでにわかに問題が・・・ 実はTetraというネーミング。奈良では超有名なマリンバ奏者、松本真理子さんのユニット名とかぶり、「それはやめて!」とクレームあり。どうしょうかな?
私ひとりでの出番もちょこちょこ。これまでもUribossa氏が都合のつかないときは、ひとりで出かけていたし、S&U結成まではずっとひとりでやってたわけだし、出来なくはないのだが、どうもひとりはさびしく、もの足りない。ギャラが半分になっても、2倍以上楽しいユニットで演りたい。そういう甘えというか、引っ張られる気持ちがあり、「仕方ないからひとりで演るか・・」という感じだった。ところが、この秋、旅の音楽家丸山祐一郎氏が、最大限の賛辞をくださって、実はちょっとだけ励まされた。ひとりの弾き語りボッサで出せる味を出せるように精進しなきゃという気持ちになれたのだ。
さて、そして何と言っても今年は、S&Uにとっては記念すべき年になった。「風のメロジア」発売。そして、ニューアルバム「約束の場所へ」制作に向けてのプロジェクトも動き出した。次回作は確実に良くなる。そんな希望をもって一年を締めくくれるのは本当に幸せだ。
この死にたくなるような嫌気のさす世界で、何とか生きる気力を維持できるようにと、神さまは私に音楽を楽しむ力を与えてくださった。神さまにただただ感謝。
ライブは、みんなから「ありがとう」と言われ、おまけにギャラまで貰える夢のような時間である。企画してくださった方々、来てくださったお客さん、CDを買ってくださった皆さんに感謝。
1.24 元気村 リコーダー講座 準備会
2.08 宇陀市子ども会 ワークショップ in 元気村
2.11 「風のメロジア」ミキシング&マスタリング
2.15 「風のメロジア」勾玉ライブ S&U①
2.11 リコーダー入門①
2.26 「ほのぼのコンサート」やまぞえホール S&U②
3.14 リコーダー入門②
3.21 「愛それは歌うこと」文化センター / 泉座 NZ プロデュース
3.22 豊田子ども会Live S&U③
3.26 ジャケット撮影 山上公園
3.27 丸山祐一郎&こやまはるこ Live プロデュース
4.19 アースデーならsouth S&U④
4.29 リコーダーアンサンブル①
5.03 つながるマーケット Salt&Vinegar
5.30 リコーダーアンサンブル②
6.13 リコーダーアンサンブル③
6.20 キャンドルナイト 尼崎はまようちえん S&U⑤
6.21 「風のメロジア」ミキシング・マスタリング MORG
6.27 ブリコラージュ S&U⑥
7.18 壮馬 ライブ at NZ プロデュース
7.20 リコーダーアンサンブル④
7.25 八尾養護学校 夏祭り S&U⑦
8.08 学びと育ちの支援 Oz-Mayリコーダー講座 in神戸
8.12~13 リコーダー合宿 リコーダーアンサンブル⑤⑥
8.15 「風のメロジア」発売 Oz-May 長岳寺Live
9.5~6 Koji&Mayumi 結婚式Oz-May mini Live
9.12 リコーダーアンサンブル⑦
9.22 元気村合宿 Tetra
10.03 Tetraハーブクラブ お月見Live
10.17 リコーダーアンサンブル⑧
10.24 Salt Live名古屋 あいうえオノマトペ
10.27 Oz -May八尾イトーヨーカドー 「さをりマルシェ」
11.07 元気村合宿 Salt&Uribossa
11.14 リコーダーアンサンブル⑨
11.17 丸山祐一郎&こやまはるこ プロデュース
11.28 田原本「カフェ・アルコ」 S&U⑧
12.12 リコーダーアンサンブル⑩
12.19 奈良市「カフェテラスNZ」ライブ S&U⑨
12.20 橿原市「風草木」ライブ S&U⑩
12.25 アトリエSUYO クリスマス会 Salt
Uribossa氏のリクエストもあったので、振り返ってみよう。
今年は、リコーダー講座の伴奏者として手伝ってもらったMomoちゃんとOz-Mayというユニットを結成。まさかこれにオファーが来るとは・・・銀治郎氏規格の神戸の出張講座がものすごく楽しかった。イトーヨーカードーのイベントにも参加し、これはDVDにもなっている。
とにかく、Momoちゃんのおかげでリコーダー講座は、非常に充実したものになった。私の自作曲に加えて、クラシックや叙情歌、ジャズやポップスのスタンダードナンバーもやり始めますます楽しい。スペシャルは、野田さん&赤星さんの飛び入り参加、そして、笛吹童子参上である。いやあ、毎回ドラマ、ドラマ。
スーちゃんとのケーナ&ギターユニットSalt&VinegarとOz-Mayが合体してTetraを結成。これにも及びがかかり、ハーブクラブではお月見ライブに出演、さらに来年の出番まで決まっている。ところが、ここでにわかに問題が・・・ 実はTetraというネーミング。奈良では超有名なマリンバ奏者、松本真理子さんのユニット名とかぶり、「それはやめて!」とクレームあり。どうしょうかな?
私ひとりでの出番もちょこちょこ。これまでもUribossa氏が都合のつかないときは、ひとりで出かけていたし、S&U結成まではずっとひとりでやってたわけだし、出来なくはないのだが、どうもひとりはさびしく、もの足りない。ギャラが半分になっても、2倍以上楽しいユニットで演りたい。そういう甘えというか、引っ張られる気持ちがあり、「仕方ないからひとりで演るか・・」という感じだった。ところが、この秋、旅の音楽家丸山祐一郎氏が、最大限の賛辞をくださって、実はちょっとだけ励まされた。ひとりの弾き語りボッサで出せる味を出せるように精進しなきゃという気持ちになれたのだ。
さて、そして何と言っても今年は、S&Uにとっては記念すべき年になった。「風のメロジア」発売。そして、ニューアルバム「約束の場所へ」制作に向けてのプロジェクトも動き出した。次回作は確実に良くなる。そんな希望をもって一年を締めくくれるのは本当に幸せだ。
この死にたくなるような嫌気のさす世界で、何とか生きる気力を維持できるようにと、神さまは私に音楽を楽しむ力を与えてくださった。神さまにただただ感謝。
ライブは、みんなから「ありがとう」と言われ、おまけにギャラまで貰える夢のような時間である。企画してくださった方々、来てくださったお客さん、CDを買ってくださった皆さんに感謝。
1.24 元気村 リコーダー講座 準備会
2.08 宇陀市子ども会 ワークショップ in 元気村
2.11 「風のメロジア」ミキシング&マスタリング
2.15 「風のメロジア」勾玉ライブ S&U①
2.11 リコーダー入門①
2.26 「ほのぼのコンサート」やまぞえホール S&U②
3.14 リコーダー入門②
3.21 「愛それは歌うこと」文化センター / 泉座 NZ プロデュース
3.22 豊田子ども会Live S&U③
3.26 ジャケット撮影 山上公園
3.27 丸山祐一郎&こやまはるこ Live プロデュース
4.19 アースデーならsouth S&U④
4.29 リコーダーアンサンブル①
5.03 つながるマーケット Salt&Vinegar
5.30 リコーダーアンサンブル②
6.13 リコーダーアンサンブル③
6.20 キャンドルナイト 尼崎はまようちえん S&U⑤
6.21 「風のメロジア」ミキシング・マスタリング MORG
6.27 ブリコラージュ S&U⑥
7.18 壮馬 ライブ at NZ プロデュース
7.20 リコーダーアンサンブル④
7.25 八尾養護学校 夏祭り S&U⑦
8.08 学びと育ちの支援 Oz-Mayリコーダー講座 in神戸
8.12~13 リコーダー合宿 リコーダーアンサンブル⑤⑥
8.15 「風のメロジア」発売 Oz-May 長岳寺Live
9.5~6 Koji&Mayumi 結婚式Oz-May mini Live
9.12 リコーダーアンサンブル⑦
9.22 元気村合宿 Tetra
10.03 Tetraハーブクラブ お月見Live
10.17 リコーダーアンサンブル⑧
10.24 Salt Live名古屋 あいうえオノマトペ
10.27 Oz -May八尾イトーヨーカドー 「さをりマルシェ」
11.07 元気村合宿 Salt&Uribossa
11.14 リコーダーアンサンブル⑨
11.17 丸山祐一郎&こやまはるこ プロデュース
11.28 田原本「カフェ・アルコ」 S&U⑧
12.12 リコーダーアンサンブル⑩
12.19 奈良市「カフェテラスNZ」ライブ S&U⑨
12.20 橿原市「風草木」ライブ S&U⑩
12.25 アトリエSUYO クリスマス会 Salt
2009/12/24
2009年のメッセージを終えて
昨日で2009年のメッセージをすべて話し終えた。
「ひねくれ者の聖書講座」を10本、「ダビデの生涯と詩編」を12本、昨日のクリスマス礼拝や特別なテーマのものや、他教会などでのメッセージを合わせても、今年は年間20本くらいのもので、これまでに比べるとずいぶん楽をさせてもらっている感じだ。多分2010年はこのペースで行って、少しずつ減らしていく予定だ。
それにしたところで、まとまった話をするのはそれほど簡単なことではない。何でもよけりゃテキトーにしゃべるが、聖書に忠実に、そして、自分自身に忠実に話さないといけないのだ。これは大変ですよ。私みたいないい加減な人間にとってはかなり難しいこと。
毎週、「もうあんまり話すことなどないよなあ」というのが本音。伝えたいことなんて別にない。「みんな好きにやればいいんだ」と本気でそう思っている。それでも、何か語るべきことがやってくる。まだ、もう少しどこかに必要はありそうだ。
私は教えの体系を整理してお伝えしようなんて思っていない。主がリアルな私を通して伝えようとしておられることを伝える義務は感じている。自分以上のことはわかるはずもないし気持ちものらない。また、自分以下の話にはあまり力がこもらない。
常に身の丈に合わせてしゃべるためには、しょんぼりしてたり、ゴロゴロしてたりは出来ない。逆にメッセージが嘘のないキチンといたものであるために、常に一定のテンションでシャンとしていられるようなもの。
私は放っておけば不節制で無茶ばかりしてしまうが、「自制」というのは聖霊の賜物。私のうちにおられる方が何とか守ってくださったとしか言いようがない。私の心身の程よい緊張と健康にもメッセージは役立っているようだ。
「ひねくれ者の聖書講座」を10本、「ダビデの生涯と詩編」を12本、昨日のクリスマス礼拝や特別なテーマのものや、他教会などでのメッセージを合わせても、今年は年間20本くらいのもので、これまでに比べるとずいぶん楽をさせてもらっている感じだ。多分2010年はこのペースで行って、少しずつ減らしていく予定だ。
それにしたところで、まとまった話をするのはそれほど簡単なことではない。何でもよけりゃテキトーにしゃべるが、聖書に忠実に、そして、自分自身に忠実に話さないといけないのだ。これは大変ですよ。私みたいないい加減な人間にとってはかなり難しいこと。
毎週、「もうあんまり話すことなどないよなあ」というのが本音。伝えたいことなんて別にない。「みんな好きにやればいいんだ」と本気でそう思っている。それでも、何か語るべきことがやってくる。まだ、もう少しどこかに必要はありそうだ。
私は教えの体系を整理してお伝えしようなんて思っていない。主がリアルな私を通して伝えようとしておられることを伝える義務は感じている。自分以上のことはわかるはずもないし気持ちものらない。また、自分以下の話にはあまり力がこもらない。
常に身の丈に合わせてしゃべるためには、しょんぼりしてたり、ゴロゴロしてたりは出来ない。逆にメッセージが嘘のないキチンといたものであるために、常に一定のテンションでシャンとしていられるようなもの。
私は放っておけば不節制で無茶ばかりしてしまうが、「自制」というのは聖霊の賜物。私のうちにおられる方が何とか守ってくださったとしか言いようがない。私の心身の程よい緊張と健康にもメッセージは役立っているようだ。
2009/12/23
クリスマス食事会
教会の「こまちたち」と一緒にクリスマスの食事会。CS教会の子どもたちも、立派なお嬢さんになり、そろそろ「こまち」の仲間入り。昔の職場で、女性の集まりをあつかましくも「こまち会」などと呼んでおられたのをほほえましく思い出す。
なぜ、こういう書き出しかと言うと、食事会の会場となったお店の名前が「こまち」だったのだ。母マリヤもガリラヤこまちだったはず。
さて、私の教会の「こまち」たち。実年齢は「おばさん」や「おばあさん」であっても、どこか女の子なキュートな部分のある方ばかりだと思っている。
繁殖するために雄を惹きつけるセクシーさではなく、いつまでも品のある艶っぽさを保っていることは大事なのだ。
勿論、男も同じ・・・
世のブ男衆は、イエスもその仲間に入れたいらしいが、「見とれるような姿や輝きもなく、慕うような見ばえもない」というイザヤの預言は、受難という要素が多分に含まれており、外見が見にくかったというわけじゃない。宗教画に見る金髪ロン毛のイエスとはずいぶんかけ離れてはいるだろうけど。
悩みのある人や子どもたちがすっと近づけるようなやさしさと同時に、まやかしを見通すようなある種の近づきがたさを兼ね備えておられたに違いないのだ。決して中性的ではなく、男らしかったのではないかと私は想像する。
おいしいものを食べながら、和やかな会話がはずむ。暗いご時世ではあるが、主にあって明るく来年の抱負を語りあった。
北海道のこまちたちも元気かな。ブログをはじめたふたりは超楽しそうだが。
全国あっち、こっちの「こまちたち」にメリークリスマス!!
なぜ、こういう書き出しかと言うと、食事会の会場となったお店の名前が「こまち」だったのだ。母マリヤもガリラヤこまちだったはず。
さて、私の教会の「こまち」たち。実年齢は「おばさん」や「おばあさん」であっても、どこか女の子なキュートな部分のある方ばかりだと思っている。
繁殖するために雄を惹きつけるセクシーさではなく、いつまでも品のある艶っぽさを保っていることは大事なのだ。
勿論、男も同じ・・・
世のブ男衆は、イエスもその仲間に入れたいらしいが、「見とれるような姿や輝きもなく、慕うような見ばえもない」というイザヤの預言は、受難という要素が多分に含まれており、外見が見にくかったというわけじゃない。宗教画に見る金髪ロン毛のイエスとはずいぶんかけ離れてはいるだろうけど。
悩みのある人や子どもたちがすっと近づけるようなやさしさと同時に、まやかしを見通すようなある種の近づきがたさを兼ね備えておられたに違いないのだ。決して中性的ではなく、男らしかったのではないかと私は想像する。
おいしいものを食べながら、和やかな会話がはずむ。暗いご時世ではあるが、主にあって明るく来年の抱負を語りあった。
北海道のこまちたちも元気かな。ブログをはじめたふたりは超楽しそうだが。
全国あっち、こっちの「こまちたち」にメリークリスマス!!
2009/12/22
笛吹童子
「私のファンを自称する恋人」が時々出現する。
訂正。「私のファンを自称する変人」が時々出現する。
まず、私なんぞのファンであること自体が「変」なので、「変人」呼ばわりしても問題ない。そして、彼らは自分が「変」であることを喜んでいる節もある。さすが私のファンである。
今年もいろいろな人が現れたが、一番面白かったのは、赤いスポーツカーに乗った笛吹童子こと、K.Kくんである。
「笛吹」というのは、ホンマに笛吹なのだ。クラシックの基礎があるフルート奏者である。
「童子」というのは、私の弟というよりは、息子の年齢に近く、しかも俳優系の甘いマスクをしているからだ。そして、白馬の代わりに赤いスポーツカーに乗っている。
先日の風草木でのライブにもリハーサルの時間から来てくれたので、ニューアルバム収録予定の「大地のうた」に小鳥がさえずるイメージでフルートを入れてもらうことになった。
Uribossa氏と3人でゆっくり語ろうと思っていたが、「次の用事がある」と言って、さっと帰ってしまった。手袋を忘れて。
訂正。「私のファンを自称する変人」が時々出現する。
まず、私なんぞのファンであること自体が「変」なので、「変人」呼ばわりしても問題ない。そして、彼らは自分が「変」であることを喜んでいる節もある。さすが私のファンである。
今年もいろいろな人が現れたが、一番面白かったのは、赤いスポーツカーに乗った笛吹童子こと、K.Kくんである。
「笛吹」というのは、ホンマに笛吹なのだ。クラシックの基礎があるフルート奏者である。
「童子」というのは、私の弟というよりは、息子の年齢に近く、しかも俳優系の甘いマスクをしているからだ。そして、白馬の代わりに赤いスポーツカーに乗っている。
先日の風草木でのライブにもリハーサルの時間から来てくれたので、ニューアルバム収録予定の「大地のうた」に小鳥がさえずるイメージでフルートを入れてもらうことになった。
Uribossa氏と3人でゆっくり語ろうと思っていたが、「次の用事がある」と言って、さっと帰ってしまった。手袋を忘れて。
2009/12/21
2009/12/20
右京さん、とにかく無事で良かった
冬の富士山は厳しい。その美しい姿とは裏腹に非常に危険な山なのだ。連続する峰がないため風が分散せず、想像を絶する強風が予期せぬ方向から吹き付けるようだ。片山右京さんが関わった今回の遭難でも、どうやらテントごと吹き飛ばされたらしい。
右京さんは、私とも関わりの深いハーブクラブのイベントにも協力していただいている。ハーブクラブのマスターから、「Saltさんとは絶対気が合うはずです」と紹介され、陽光の差し込むテーブルで談笑したのは2年前だっただろうか。
カフェテラスNZの真絹ちゃんへのサインも快く書いてくれて、お店のことについても興味をもって、熱心に質問してくれていたのを覚えている。その日はサイクリングのイベントだったのだが、「昨日九州の山を下りて来て今日は奈良で自転車に乗って、明日はカナダへ行く予定だ」と力強く語っていた。思っていたよりずっと小柄だったが、活力にあふれていた。
今回のインタビューを受けていたブラウン菅の中の右京さんは憔悴しきっっていた。なかまを見捨てるかたちで下山せざるを得なかったその心中を思うと胸がしめつけられる。亡くなったふたりの友人の遺族のコメントも右京さんを責めるようなものではなく、「好きな山で逝くことができ本望」というような主旨のものだっただけに、彼にとってはいっそう厳しいものだったかもしれない。
日常の暮らしを離れ、厳しい自然の中に身をおいて己の生を確認したいという渇望は誰にもあるものだ。しかし、時に自然は人に牙をむく。自然には人格があるわけではない。一定の法則に委ねられているだけだ。
「生きもの」としての人と、いのちを取り巻く環境としての自然というものを考えるとき、人と自然との関わり、そして、人の生き方を思う。
私は彼らのように「冒険」する人間ではない。自らのいのちを自然の中で限界に晒さなくても十分スリルやエクスタシーはある。
右京さんは、祈っただろうか。祈ったとすれば、それはどこの何者に対するどんな祈りだったのだろう。不謹慎かもしれないが、そういうことに興味が湧く。
右京さんは、私とも関わりの深いハーブクラブのイベントにも協力していただいている。ハーブクラブのマスターから、「Saltさんとは絶対気が合うはずです」と紹介され、陽光の差し込むテーブルで談笑したのは2年前だっただろうか。
カフェテラスNZの真絹ちゃんへのサインも快く書いてくれて、お店のことについても興味をもって、熱心に質問してくれていたのを覚えている。その日はサイクリングのイベントだったのだが、「昨日九州の山を下りて来て今日は奈良で自転車に乗って、明日はカナダへ行く予定だ」と力強く語っていた。思っていたよりずっと小柄だったが、活力にあふれていた。
今回のインタビューを受けていたブラウン菅の中の右京さんは憔悴しきっっていた。なかまを見捨てるかたちで下山せざるを得なかったその心中を思うと胸がしめつけられる。亡くなったふたりの友人の遺族のコメントも右京さんを責めるようなものではなく、「好きな山で逝くことができ本望」というような主旨のものだっただけに、彼にとってはいっそう厳しいものだったかもしれない。
日常の暮らしを離れ、厳しい自然の中に身をおいて己の生を確認したいという渇望は誰にもあるものだ。しかし、時に自然は人に牙をむく。自然には人格があるわけではない。一定の法則に委ねられているだけだ。
「生きもの」としての人と、いのちを取り巻く環境としての自然というものを考えるとき、人と自然との関わり、そして、人の生き方を思う。
私は彼らのように「冒険」する人間ではない。自らのいのちを自然の中で限界に晒さなくても十分スリルやエクスタシーはある。
右京さんは、祈っただろうか。祈ったとすれば、それはどこの何者に対するどんな祈りだったのだろう。不謹慎かもしれないが、そういうことに興味が湧く。
2009/12/17
マイケル・ジャクソンの真実②
創作の方法についての質問を受けたとき、マイケルは「音楽やダンスは上から降りてくるんだ」と語った。そして、「上から降りてくる瞬間を見せろ」という無理難題にも、「僕はシャイなんだ」とためらいつつも、自分の曲を流してその場で即興のダンスを披露した。それにしても、この番組を制作したイギリスのジャーナリストは最高にウザかった。私なら即刻インタビューは打ち切るところだ。マイケルはいい奴だ。
それがいわゆるマイケルが言うところの「降りてくる瞬間」でなかったにせよ、カメラの前の即興ダンスは、驚くほど完成度の高いものだった。
「踊るときに考えることは最大のミスなんだ。感じることさ」と、まるで「燃えよ、ドラゴン」のブルース・リーみたいなことを言っている。これはアートに限らず、極めれば神髄はみな同じなのだ。要するに、自然体で大きな流れに身を委ね法則に乗ることだ。
音楽家の仕事は空中に蝶を創作することではない。飛んでいる蝶を捕らえるように曲を作るのだと思う。まだまだ未発見の新種が、その美しい羽をたたんで、どこかに潜んでいるのだ。
神は数え切れないほどの多種多様な蝶を創造された。音楽は、蝶よりも偉大な人類への贈り物だ。ゴムで作ったようなオモチャの虫なんか無視しよう。
私はマイケルが見つけなかった種類の蝶を集め始めた子どもなのだ。
それがいわゆるマイケルが言うところの「降りてくる瞬間」でなかったにせよ、カメラの前の即興ダンスは、驚くほど完成度の高いものだった。
「踊るときに考えることは最大のミスなんだ。感じることさ」と、まるで「燃えよ、ドラゴン」のブルース・リーみたいなことを言っている。これはアートに限らず、極めれば神髄はみな同じなのだ。要するに、自然体で大きな流れに身を委ね法則に乗ることだ。
音楽家の仕事は空中に蝶を創作することではない。飛んでいる蝶を捕らえるように曲を作るのだと思う。まだまだ未発見の新種が、その美しい羽をたたんで、どこかに潜んでいるのだ。
神は数え切れないほどの多種多様な蝶を創造された。音楽は、蝶よりも偉大な人類への贈り物だ。ゴムで作ったようなオモチャの虫なんか無視しよう。
私はマイケルが見つけなかった種類の蝶を集め始めた子どもなのだ。
2009/12/16
マイケル・ジャクソンの真実①
マイケルジャクソンのドキュメント番組、ご覧になった方はおられるだろうか。
長かったが、ついつい全部見てしまった。途中子どもを迎えに行ったもりしたが、その時間を惜しむほど惹きつけられた。
当初からマスコミが興味本位にかき立てているとおりが事実だとは思っていたわけではなかったが、よもやこのような真実が隠れているとは思わなかった。簡単に言うと、ダイアナの独占インタビューで名を売ったイギリスのジャーナリストが密着取材して制作されたTV番組「マイケル・ジャクソンの真実」は悪意に満ちた編集になっており、一連のマイケル裁判は事実無根であったという内容だ。
マイケルは、彼の無垢な純粋さやありあまる資産や世界的な名声を利用する醜悪な連中によって悩まされ続け、その結果、極度のストレスから薬物に依存していったのだった。
極めて繊細な感受性を持ちながら、幼い頃からその才能が認められたために、普通に成長できない環境の中で育ったマイケル。12才の頃、すでに毎月7200万の小切手をもらって、そのお小遣いの中からガムやキャンディ―を買っていたと言う。
そして今は、まるで駄菓子を買うように、アンティークショップで、あり得ないような金額の品物を値段も聞かずに次々に購入する。強いコンプレックスと人間不信からくるストレスが、そんな数々の奇行を生み、それをまたマスコミが面白がって取り上げ、興味本位に報道する。
ネバーランドという超豪華な引きこもり部屋を自分で用意して、利害関係がない子どもたちを招いては心を許していたマイケルだが、その子どもたちを通して魔物が侵入してくる。
ショービジネスという怪物に食いつぶされたキング・オブ・ポップスの生涯は、果たして幸せなものだったのだろうか。
私も「風のメロジア」が1億枚売れたら、人間性がおかしくなるかもなあ。
でも、100枚そこそこで停滞している現状を肯定する気は全然ないぞ。売りモットー、行けモットー。とりあえず、1000枚売ろう。ご協力よろしく。大事な人へのクリスマスプレゼントやお年玉にいかが?
長かったが、ついつい全部見てしまった。途中子どもを迎えに行ったもりしたが、その時間を惜しむほど惹きつけられた。
当初からマスコミが興味本位にかき立てているとおりが事実だとは思っていたわけではなかったが、よもやこのような真実が隠れているとは思わなかった。簡単に言うと、ダイアナの独占インタビューで名を売ったイギリスのジャーナリストが密着取材して制作されたTV番組「マイケル・ジャクソンの真実」は悪意に満ちた編集になっており、一連のマイケル裁判は事実無根であったという内容だ。
マイケルは、彼の無垢な純粋さやありあまる資産や世界的な名声を利用する醜悪な連中によって悩まされ続け、その結果、極度のストレスから薬物に依存していったのだった。
極めて繊細な感受性を持ちながら、幼い頃からその才能が認められたために、普通に成長できない環境の中で育ったマイケル。12才の頃、すでに毎月7200万の小切手をもらって、そのお小遣いの中からガムやキャンディ―を買っていたと言う。
そして今は、まるで駄菓子を買うように、アンティークショップで、あり得ないような金額の品物を値段も聞かずに次々に購入する。強いコンプレックスと人間不信からくるストレスが、そんな数々の奇行を生み、それをまたマスコミが面白がって取り上げ、興味本位に報道する。
ネバーランドという超豪華な引きこもり部屋を自分で用意して、利害関係がない子どもたちを招いては心を許していたマイケルだが、その子どもたちを通して魔物が侵入してくる。
ショービジネスという怪物に食いつぶされたキング・オブ・ポップスの生涯は、果たして幸せなものだったのだろうか。
私も「風のメロジア」が1億枚売れたら、人間性がおかしくなるかもなあ。
でも、100枚そこそこで停滞している現状を肯定する気は全然ないぞ。売りモットー、行けモットー。とりあえず、1000枚売ろう。ご協力よろしく。大事な人へのクリスマスプレゼントやお年玉にいかが?
2009/12/15
粋に生きたい そして 逝きたい
不毛地帯の主人公「壱岐正」に、多少の思い入れがある。不毛地帯は映像としては何の面白みもない地味なドラマだが、なかなか見応えがある。
義を重んじるが故に家族を泣かせ、家族を愛するが故に商社に勤め、国を憂うが故に望まぬ競争に巻き込まれ大事な友人を亡くす。そうこうするうち最愛の妻を失い、子どもたちも自分の願いとは大きくかけ離れた選択をしていく。見ていてかなり痛々しいものがある。
作者山崎豊子がなぜこの主人公を「壱岐正」と名付けたのか。私は全く知らないが、いろいろ考えてみるのも面白い。
「息」「逝」「粋」「活」「意気」「域」「行」「征」と、いろんな漢字が浮かぶ。
人生の節目、その折々に、「壱岐」は正しい選択をしたかに見える。しかし、それは必ずしも正しい選択ではなかった。「壱岐」の正しさは、ただ「壱岐」にとっての正義でしかない。そう、それぞれの正義が衝突することは不毛なのだ。
「壱岐正」
・・・こう考えてくると、なかなか味のあるネーミングである。これがルークやリチャードじゃあ台無しだ。もちろんソルトなんぞは論外である。漢字は深い!
しかし、正直下手すりゃ私も壱岐正。不毛地帯に没入していく頑なさと弱さ(強さ)を資質としては十二分に兼ね備えている。鍵は脱力すること。負けてやることだ。力んで勝ちに行ったらエライことになる。正しさをあまり主張しちゃダメだ。正論なんて所詮暴論である。ちょい悪や遊び半分がちょうどいい頃合いなのだと私は勝手に思っている。(勝手に思ってるだけで、全然正しくない)とにかく、信仰があってよかったと胸を撫で下ろしつつ、しみじみしながらドラマを楽しんでいる。
洒落で、Salt流の「生きる秘訣」を谷川俊太郎風にまとめてみた。
生きる
いきいき生きるということ
それは
生きものとして元気であるということ
楽しく生きているということ
昨日の償いでもなく
明日の備えでもなく
今を
楽しく生きているということ
それは
誰かに会いたくなるということ
どこかへ行ききたくなるということ
飯がうまいということ
女が美しく見えるということ
音楽があふれてくるということ
風が心地よいということ
昨日を振り返らないということ
明日の心配をしないということ
今
息があるということ
今
永遠につながる今を
生きているということ
義を重んじるが故に家族を泣かせ、家族を愛するが故に商社に勤め、国を憂うが故に望まぬ競争に巻き込まれ大事な友人を亡くす。そうこうするうち最愛の妻を失い、子どもたちも自分の願いとは大きくかけ離れた選択をしていく。見ていてかなり痛々しいものがある。
作者山崎豊子がなぜこの主人公を「壱岐正」と名付けたのか。私は全く知らないが、いろいろ考えてみるのも面白い。
「息」「逝」「粋」「活」「意気」「域」「行」「征」と、いろんな漢字が浮かぶ。
人生の節目、その折々に、「壱岐」は正しい選択をしたかに見える。しかし、それは必ずしも正しい選択ではなかった。「壱岐」の正しさは、ただ「壱岐」にとっての正義でしかない。そう、それぞれの正義が衝突することは不毛なのだ。
「壱岐正」
・・・こう考えてくると、なかなか味のあるネーミングである。これがルークやリチャードじゃあ台無しだ。もちろんソルトなんぞは論外である。漢字は深い!
しかし、正直下手すりゃ私も壱岐正。不毛地帯に没入していく頑なさと弱さ(強さ)を資質としては十二分に兼ね備えている。鍵は脱力すること。負けてやることだ。力んで勝ちに行ったらエライことになる。正しさをあまり主張しちゃダメだ。正論なんて所詮暴論である。ちょい悪や遊び半分がちょうどいい頃合いなのだと私は勝手に思っている。(勝手に思ってるだけで、全然正しくない)とにかく、信仰があってよかったと胸を撫で下ろしつつ、しみじみしながらドラマを楽しんでいる。
洒落で、Salt流の「生きる秘訣」を谷川俊太郎風にまとめてみた。
生きる
いきいき生きるということ
それは
生きものとして元気であるということ
楽しく生きているということ
昨日の償いでもなく
明日の備えでもなく
今を
楽しく生きているということ
それは
誰かに会いたくなるということ
どこかへ行ききたくなるということ
飯がうまいということ
女が美しく見えるということ
音楽があふれてくるということ
風が心地よいということ
昨日を振り返らないということ
明日の心配をしないということ
今
息があるということ
今
永遠につながる今を
生きているということ
2009/12/14
「浮き」と「はみ出し」
Y.B.M氏の写真専門学校時代の教え子である新進気鋭の写真家「梅佳代」さんのことがコメント欄で話題になり、Y.B.M氏自身がかつてのエピソードについて臨場感あふれる報告をしてくれている。彼女の傑出した才能を早い時期に見出したY.B.M氏は、特別な指導は何もせず、ただ認め励まし続けた。写真表現の授業で自分の写真が取り上げられず、「駄目なんだ」と思って泣きそうな気分のときに、最後の最後に、先生の最大級の賞賛とともに自分の写真が出てくるのである。写真家「梅佳代」誕生の貴重な裏話だ。
彼女は確かに普通の教室の中にいたら、「浮いてしまう子」「はみ出してしまう子」だったかも知れない。また、どのようなスタイルの学校であっても、そのような「浮き」や「はみ出し」はやむを得ないし、ある意味ではむしろ必要なのだ。その「浮き」や「はみ出し」でつぶれてしまう程度の感性なら、残る価値のないものなのかも知れない。「浮く」こと「はみ出す」ことで自分の相対的な位置を確認できるのである。
これまでの表現のかたちを変えていくほどの飛び抜けた感性の持ち主は、既製のシステムやフレームの中では、正当な評価を受けることはまずない。彼らの発信は、最大公約数的な価値観、つまり凡庸な感性のプラットフォームには落ち着かないからだ。
多くのアーチストは、この最大公約数的な価値観とどこかで折り合いをつけつつ、己の目指すべき処を探りながら、表現を磨いていくのである。残っていくべき人は、どんなキビシイ環境でも残っていくのだろう。
私が教育に関わるものとして、問題にしたいのは、そういう飛び抜けた才能はない「多くの普通の人たち」である。こうした人たちだって、他者に抜きんでて極めずとも、自分の伸びしろの範囲で自分なりの表現力を高めたり、表現それ自体を楽しんで、なかまと分かち合うことが出来るはずだ。自分の才能を開く前に、教育が表現者と聴衆を分離するのは違うと思っているのだ。誰だって、歌ったり、踊ったり、演じたり、描いたり、何かを作ったりすることは、それ自体が楽しい行為なのだ。
「表現」のかたちを方向づける感性が、認知や発達の個性とどのように関連しているのかは、まだまともに研究対象とされたこともない。既製のシステムやフレームに限界や退屈さを感じている人たちが障害者のアートを面白がっている程度の現状であるが、実はここに大きな秘密がある。
だから、私の戦いは学校というシステムを破壊する戦いではない。そうした「浮き」や「はみ出し」が起こることを未然に防ごうという動きでもない。私自身が「浮き」また「はみ出し」ながら、システムに押しつぶされない価値を確かめ、システム内に価値が反転する臍を見出すことである。安易に自由主義的な学校は、かえって自由が何なのか、その価値を曖昧にしてしまう愚かさがある。
私は、永遠の楽しみと表現の喜びにつながるバイパスへの狭き門を知っている。それをひそやかに指し示すことが出来ればと願っている。
彼女は確かに普通の教室の中にいたら、「浮いてしまう子」「はみ出してしまう子」だったかも知れない。また、どのようなスタイルの学校であっても、そのような「浮き」や「はみ出し」はやむを得ないし、ある意味ではむしろ必要なのだ。その「浮き」や「はみ出し」でつぶれてしまう程度の感性なら、残る価値のないものなのかも知れない。「浮く」こと「はみ出す」ことで自分の相対的な位置を確認できるのである。
これまでの表現のかたちを変えていくほどの飛び抜けた感性の持ち主は、既製のシステムやフレームの中では、正当な評価を受けることはまずない。彼らの発信は、最大公約数的な価値観、つまり凡庸な感性のプラットフォームには落ち着かないからだ。
多くのアーチストは、この最大公約数的な価値観とどこかで折り合いをつけつつ、己の目指すべき処を探りながら、表現を磨いていくのである。残っていくべき人は、どんなキビシイ環境でも残っていくのだろう。
私が教育に関わるものとして、問題にしたいのは、そういう飛び抜けた才能はない「多くの普通の人たち」である。こうした人たちだって、他者に抜きんでて極めずとも、自分の伸びしろの範囲で自分なりの表現力を高めたり、表現それ自体を楽しんで、なかまと分かち合うことが出来るはずだ。自分の才能を開く前に、教育が表現者と聴衆を分離するのは違うと思っているのだ。誰だって、歌ったり、踊ったり、演じたり、描いたり、何かを作ったりすることは、それ自体が楽しい行為なのだ。
「表現」のかたちを方向づける感性が、認知や発達の個性とどのように関連しているのかは、まだまともに研究対象とされたこともない。既製のシステムやフレームに限界や退屈さを感じている人たちが障害者のアートを面白がっている程度の現状であるが、実はここに大きな秘密がある。
だから、私の戦いは学校というシステムを破壊する戦いではない。そうした「浮き」や「はみ出し」が起こることを未然に防ごうという動きでもない。私自身が「浮き」また「はみ出し」ながら、システムに押しつぶされない価値を確かめ、システム内に価値が反転する臍を見出すことである。安易に自由主義的な学校は、かえって自由が何なのか、その価値を曖昧にしてしまう愚かさがある。
私は、永遠の楽しみと表現の喜びにつながるバイパスへの狭き門を知っている。それをひそやかに指し示すことが出来ればと願っている。
2009/12/13
12月のライブ・インフォメーション
Salt & Uribossa Live at Café NZ
~ボサノヴァで温ったまろ~
日時 12月19日(土) PM 15:00~17:00
料金 1500円
ハーブクラブのパンを販売しています。(有料)
Salt & Uribossa Live at 風草木
~十二月の少年樹~
日時 12月20日(日) AM 11:00~12:30くらい?
(ライブの後、軽食を囲みながら、雑談?)
料金: 500円 (子供さん 無料)
ライブの後、軽い食事や飲み物も御用意させていただきます。(無料)
(食べ物持ち寄り大歓迎です。)
アルコ・レコ発ライブとは全く別メニューでお届けするべく準備中。
聴きどころは、ニューアルバムに収録される予定の数曲や、今年亡くなられた方々への追悼メドレーなど。
~ボサノヴァで温ったまろ~
日時 12月19日(土) PM 15:00~17:00
料金 1500円
ハーブクラブのパンを販売しています。(有料)
Salt & Uribossa Live at 風草木
~十二月の少年樹~
日時 12月20日(日) AM 11:00~12:30くらい?
(ライブの後、軽食を囲みながら、雑談?)
料金: 500円 (子供さん 無料)
ライブの後、軽い食事や飲み物も御用意させていただきます。(無料)
(食べ物持ち寄り大歓迎です。)
アルコ・レコ発ライブとは全く別メニューでお届けするべく準備中。
聴きどころは、ニューアルバムに収録される予定の数曲や、今年亡くなられた方々への追悼メドレーなど。
2009/12/11
明日は廃校でリコーダー
NGOペシャワール会の代表で医師の中村哲氏が、次にように語っている。
「『アフガニスタンには教育がない』なんて言う。『子どもたちが、学校に行ってないんですってね』と。でも、あちらでは、家の手伝いをすることが職業教育、小さいときからコーランを暗唱して、毎週金曜日にモスクに行くことが道徳教育です、基本的なことはきちんとやっているわけで、あそこで微分・積分を教えてどうする(笑)。それなのに干ばつで、腹ぺこで逃げようかどうしようかというときに、突然、外国人が来て、『あんたたちがこんなにみじめなのは、教育がないせいよ』と鉛筆を配ったりして。ホントに嘘みたいなことが起きている。『教育が崩壊している』という日本がアフガン復興で教育に携わると聞いたときは、冗談じゃなかろうかと思いましたけど」【養老孟司氏との対談「先進国はアフガンという田舎が怖いのだより」】
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
先進国の学校教育というシステムの無神経さが、(かなり無神経な人にも)多少はわかるコメントではないだろうか。
過疎地の廃校にアトリエを構える私は、明日もそこで月一回の講座「リコーダー・アンサンブルを楽しもう」を開講する。
過疎地の廃校という存在自体が、そこでの私の活動内容よりもずっと大きなメッセージを持っている。
「ふるさと元気村」という情けない名前。いつも言っているが、ここは「被災地」なのだ!!
こういう売りになる特徴のない過疎地が日本にはいっぱいあることを記憶せよ。
私は自然と寄り添って生きる当たり前の人の営みを陵辱するシステムはすべて憎んでいる。陵辱されても恥や痛みを感じない鈍感さを嫌悪し、そこに都市的なシステムをはめ込もうとする安直さには怒りを感じる。
ただ私は、人が人と何かを分かち合ったり、ともにひとつの価値を共有することは、美しく尊い姿だと思っている。
あらゆる「学校」が崩れ、すべての「教育」が腐っているわけじゃない。
斜に構えて批判するだけの輩は世の中に掃いて捨てるほどいる。私はそういう者にはなりたくない。辱められて黙ってはいられない。
たとえ、ささやかなものであっても、私は常に「つくる」人、「分かち合う」人、「遊ぶ」人、「楽しむ」人でいたいのだ。
「『アフガニスタンには教育がない』なんて言う。『子どもたちが、学校に行ってないんですってね』と。でも、あちらでは、家の手伝いをすることが職業教育、小さいときからコーランを暗唱して、毎週金曜日にモスクに行くことが道徳教育です、基本的なことはきちんとやっているわけで、あそこで微分・積分を教えてどうする(笑)。それなのに干ばつで、腹ぺこで逃げようかどうしようかというときに、突然、外国人が来て、『あんたたちがこんなにみじめなのは、教育がないせいよ』と鉛筆を配ったりして。ホントに嘘みたいなことが起きている。『教育が崩壊している』という日本がアフガン復興で教育に携わると聞いたときは、冗談じゃなかろうかと思いましたけど」【養老孟司氏との対談「先進国はアフガンという田舎が怖いのだより」】
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
先進国の学校教育というシステムの無神経さが、(かなり無神経な人にも)多少はわかるコメントではないだろうか。
過疎地の廃校にアトリエを構える私は、明日もそこで月一回の講座「リコーダー・アンサンブルを楽しもう」を開講する。
過疎地の廃校という存在自体が、そこでの私の活動内容よりもずっと大きなメッセージを持っている。
「ふるさと元気村」という情けない名前。いつも言っているが、ここは「被災地」なのだ!!
こういう売りになる特徴のない過疎地が日本にはいっぱいあることを記憶せよ。
私は自然と寄り添って生きる当たり前の人の営みを陵辱するシステムはすべて憎んでいる。陵辱されても恥や痛みを感じない鈍感さを嫌悪し、そこに都市的なシステムをはめ込もうとする安直さには怒りを感じる。
ただ私は、人が人と何かを分かち合ったり、ともにひとつの価値を共有することは、美しく尊い姿だと思っている。
あらゆる「学校」が崩れ、すべての「教育」が腐っているわけじゃない。
斜に構えて批判するだけの輩は世の中に掃いて捨てるほどいる。私はそういう者にはなりたくない。辱められて黙ってはいられない。
たとえ、ささやかなものであっても、私は常に「つくる」人、「分かち合う」人、「遊ぶ」人、「楽しむ」人でいたいのだ。
2009/12/09
歌うたいのフェーズ④
「歌がうまい」というのはどういうことだろう。音程が正確であるというのは、うまい以前の最低条件であろう。しかし、腹式呼吸で滑舌よく朗々と歌われても、ただそれだけで人は感動しない。7オクターブの声が出るとか言われても何だかなあ・・・・という感じだ。
人が感動しない歌はうまい歌だろうか。「うまいだけのつまらない歌」という言い方は出来るかもしれない。
フレディ・マーキュリーは、ピチピチタイツに上半身裸で、スタンドマイクを振り回しながら、海老反って歌う。あの恰好、あの動きでないと歌えないとでもいうように・・・・。彼の場合は決してうまいだけの歌ではない。だから世界中の多くの人が熱狂した。でも、私的にはああいうのは何か違う。
マイケル・ジャクソンが死んで、久しぶりに「ウイ・アー・ザ・ワールド」の映像を観た。錚々たるメンバーがクインシー・ジョーンズの演出に従って(多分)、自分の割り当ての部分を歌う例のやつだ。さすがに一流の歌うたいばかり。皆、個性的だしうまいと言えば物凄くうまい。その中で私が一番印象に残ったのはボブ・ディランだった。
ボブ・ディランは、いわゆる歌がうまいタイプのミュージシャンではない。学校の教育音楽の中では、「ボブくん、ちょっとその歌い方は良くなくてよ」と叱られそうだ。しかし、その「ぶっきらぼう」な歌い方と独特の嗄れた声に、何とも惹かれるものがある。
レオン・ラッセルもそうだ。
レオン・ラッセルという名前だけで、顔や声を思い出せる人はあまりいないかも知れない。カーペンターズが歌った「ア・ソング・フォー・ユー」「マスカレード」「スーパースター」の作者と言えば、若干うなずく人が増えるだろう。
リチャード・カーペンターのアレンジはとっても洒落ている。レオン・ラッセルの原曲の良さを引き出しつつ、カレンの声を活かす完成度が高い出来映えである。しかし、カレンがどんなにうまく歌っても、原曲の圧倒的な「渋み」や「苦み」には全くかなわないのだ。
こんな風に自分の嗜好を分析してみると、私が引きつけられるのは、「歌のうまさ」ではない。かと言って、その声が特に好きというわけでもない。私が魅力を感じるのは、その人が本質的に持っている「自由」というよりは「奔放さ」という表現が近いかな・・・あるいは、「その人らしさ」を努力して保っていることだと思う。
そして、私自身は決してうまく歌いたいわけでも、歌うパフォーマンスを見せたいわけでもないんだなあと改めて気づいた。私は自分らしい自分の声で、歌いたいことを、歌いたいように、歌いたいときに、歌いたいだけなのだ。それが自分のあり方として一番気持ちいい。
人が感動しない歌はうまい歌だろうか。「うまいだけのつまらない歌」という言い方は出来るかもしれない。
フレディ・マーキュリーは、ピチピチタイツに上半身裸で、スタンドマイクを振り回しながら、海老反って歌う。あの恰好、あの動きでないと歌えないとでもいうように・・・・。彼の場合は決してうまいだけの歌ではない。だから世界中の多くの人が熱狂した。でも、私的にはああいうのは何か違う。
マイケル・ジャクソンが死んで、久しぶりに「ウイ・アー・ザ・ワールド」の映像を観た。錚々たるメンバーがクインシー・ジョーンズの演出に従って(多分)、自分の割り当ての部分を歌う例のやつだ。さすがに一流の歌うたいばかり。皆、個性的だしうまいと言えば物凄くうまい。その中で私が一番印象に残ったのはボブ・ディランだった。
ボブ・ディランは、いわゆる歌がうまいタイプのミュージシャンではない。学校の教育音楽の中では、「ボブくん、ちょっとその歌い方は良くなくてよ」と叱られそうだ。しかし、その「ぶっきらぼう」な歌い方と独特の嗄れた声に、何とも惹かれるものがある。
レオン・ラッセルもそうだ。
レオン・ラッセルという名前だけで、顔や声を思い出せる人はあまりいないかも知れない。カーペンターズが歌った「ア・ソング・フォー・ユー」「マスカレード」「スーパースター」の作者と言えば、若干うなずく人が増えるだろう。
リチャード・カーペンターのアレンジはとっても洒落ている。レオン・ラッセルの原曲の良さを引き出しつつ、カレンの声を活かす完成度が高い出来映えである。しかし、カレンがどんなにうまく歌っても、原曲の圧倒的な「渋み」や「苦み」には全くかなわないのだ。
こんな風に自分の嗜好を分析してみると、私が引きつけられるのは、「歌のうまさ」ではない。かと言って、その声が特に好きというわけでもない。私が魅力を感じるのは、その人が本質的に持っている「自由」というよりは「奔放さ」という表現が近いかな・・・あるいは、「その人らしさ」を努力して保っていることだと思う。
そして、私自身は決してうまく歌いたいわけでも、歌うパフォーマンスを見せたいわけでもないんだなあと改めて気づいた。私は自分らしい自分の声で、歌いたいことを、歌いたいように、歌いたいときに、歌いたいだけなのだ。それが自分のあり方として一番気持ちいい。
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